桜宮高校の体罰を苦にした生徒が自殺した事件では、加害者とされたバスケットボール部の顧問に、懲戒免職という処分がくだりました。
体罰に対する処分としては、全国的にも異例な重いものだそうです。
たしかに、1人の少年の未来を奪うきっかけになった体罰です。
また、入試中止を強行した橋下市長を支持する声が、大きいことも知っています。
そのくらい大胆なことをやらなければ、変わらないという気持ちからでしょう。
そう考えれば、そのくらい重い処分で当然だという考えもあるでしょう。
でも私は、やはりそういう考えには同意できないのです。こういう処分を疑問に感じます。
「そこまでする必要があるだろうか?そういう見せしめ的な、報復的な処罰が役に立つのだろうか?」
自殺した少年の無念は理解するものの、加害者とされる顧問も哀れに感じるからです。
日本の法律では、報復的な処罰を禁止しています。
罰を与えるのは仕返しではなく、あくまでも矯正なのです。それが法の趣旨です。
会社や公務員の罰則も、それに準じたものと考えられます。
「罪を憎んで人を憎まず」
その精神から、罪を犯した人に苦痛を与えることを目的としてはいないはずなのです。
しかし、実際の運用はそうではない気がします。
世間をどれだけ騒がせたとか、被害者の数や程度がどうかで、罰が変わるのですから。
処罰された顧問にも、家族がいたでしょう。
明るい未来があったはずです。
自殺した少年の未来が絶たれたからと言って、もう1人の未来も絶たなければならないのでしょうか?
もし、その双方が兄弟だったら、親はどう感じるでしょう?一度に2人の子どもの未来を絶たれることになります。
人類はみな兄弟姉妹という掛け声はありますが、いったいどれだけの人がそれを実感しているのでしょう?
もしそれを実感し、その兄弟姉妹の親の立場を想像するなら、そんな残酷なことはできないと思うからです。
今回の問題は、明らかに故意ではありません。
つまり、少年を自殺に追い込もうとして体罰を加えたわけではないのです。
おそらく自分では、体罰が少年のためになると思い込んでいたと思うし、それがチームのため、学校のため、地域のためになると信じていたと思うのです。
けれども、そうならない結果が出てしまい、本人も、「なぜ、こんなことになったのだろう?」と、頭を抱え込んでいると思うのです。
教育に体罰は必要ないと多くの人が意見を述べていますが、それなら教育指導者への体罰は必要なのでしょうか?
懲戒免職という体罰を加えて、苦痛を味わわせる必要があったのでしょうか?
ただでさえ、マスコミからの取材で身辺は穏やかでなくなり、近所の人達からは後ろ指を指され、指導することに対して自信も失いかけているのに。
さらに追い打ちをかける必要性があるのでしょうか?
これは単に世論の批判に耐えかねて、批判者の溜飲を下げるために、顧問をスケープゴートにしただけではないでしょうか?
これが「人を憎まず」という精神に基づいた行為と言えるのでしょうか?
私は、これが愛情に基づいた処置とは思えません。
この事件を生かし、これから良くしていこうという精神に基づいた、建設的な対応とは思えません。
暴力を奮って甚大な被害を与えたのだから、お前も同じように苦痛を味わえという、報復的な処置としか思えないのです。
「体罰が常習的だった点を重視したとみられる」という考えもありますが、それならまず最初に指導があるべきでしょう。
指導を繰り返しても従わない。そのとき初めて、懲戒という処罰に至るのではありませんか?
いじめの加害者を、今度は逆にいじめ返す。
それが抑止力になるからと言って、同じことをやっているのです。
仇討ちされた人の子どもが、大きくなってその仇を討つ。
暴力の連鎖は、このような考え方から続いているように思います。
加害者とされた顧問も、また同じ人なのです。
善意から、暴力をふるってしまったかわいそうな人なのです。
辞任させるだけでも十分なのに、あえて懲戒免職だなんて。
その顧問のバスケットボールにかける情熱を、体罰を用いない健全な方法で発揮してもらう道さえ閉ざしてしまう処分。
それが社会にとって有益とは思えないのです。
これをやっている限り、社会から暴力やいじめはなくならないと思います。
なぜなら、暴力やいじめが人を強制するのに効果的だと多くの人が信じているから、同じ方法で報復するのですから。
もし本当になくしたいなら、それらは効果がないと認めなければなりません。
そうではない方法で、効果をあげなければなりません。
そのための勇気ある一歩を踏み出さないと、いつまでも同じ所にとどまっていることになるのです。
2013年02月13日
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