昨日はソフトボールの日でした。
けれども、目が覚めると外はどんよりと曇っています。今にも雨が降りそうです。
そんな中で車に乗ってグランドへ向かう途中、ついに降り出してきました。
雨脚は徐々に強くなり、ついには路肩に水たまりができるほどの土砂降りに。
「さすがに今日は無理かなあ。」
昨年は奇跡的に1回の中止もなかったのですが、一昨年までは、前日に雨が降っただけで中止になるほど、グランドの水はけが悪かったのです。
少しは改善されたようですが、そうは言っても直前のこの雨ですから。
グランドに到着すると、雨はほとんど上がっていました。
そしてグランドに足を踏み入れると、芝生の下は意外としっかりしています。
「これならやれそう!」
ホッとしました。
しばらく降ったりやんだりでしたが、9時半くらいの試合開始時には、完全に雨もあがりました。
予定通りにソフトボールができて、やっぱりツイてますね。
とは言え、良いことばかりでもありません。
前日のゴルフ練習中に、右肘が少し痛くなっていたのですが、それがひどくなってしまいました。
それを実感したのは、ソフトボールが終わった後の昼食会の席。
テーブル中央の皿から料理を取ろうとして箸を伸ばし、つかんだ後、肘に激痛が走りました。
危うく料理を落としそうになりましたよ。
「あれっ、どうしちゃったんだろう?」
そんなにひどいと思っていなかったので、びっくりしたくらいです。
その後、部屋に戻ってまったりしていましたが、右肘から右肩にかけて違和感があり、ときどき激痛が走ります。
「あー、これは完全にやっちゃったなあ。ひょっとしたら、関節が悪くなったのかも。」
2年くらいまえに両膝を痛めたのですが、そのときと似たような感じです。
動かしたときに、肘の関節がポキっと鳴ることがあります。
キャッチボールをしたときに違和感があったので、慎重にウォームアップをしたつもりだったのですが、それでも負担が大きかったのでしょう。
まあでも、なっちゃったものはどうしようもありません。
しばらく養生せよと言うことだと思い、おとなしくすることにします。
部屋ではたっぷり時間があったので、読みかけだった「変えれば、変わる」を最後まで読みました。
これで、「神との対話」シリーズの12冊を読み終えたことになります。
昨年の10月から読み始めた「神との対話」シリーズですが、これまでは青いボールペンで線を引きながら読んできました。
今度は赤いボールペンで線を引きながら、また「神との対話」に戻って読むことにします。
読み終えた「変えれば、変わる」にも、たくさんの興味深いことが書かれています。
その中の一部を、引用しながら紹介しましょう。
「わたしの成人した息子たちは、人生に起こる出来事に対処する方法を知っている。何が起こっても、あっさりとこう言うのだ。「これもいいじゃないか」。」
「ランチ・デートを計画していたのに、だめになった?「これもいいじゃないか」。マイカーがご機嫌斜めで発進しない?「これもいいじゃないか」。わたしはこの方法が好きだ。とても好きだ。なんという見方だろう!なんど見事な出発点だろう!これこそ、すばらしい明日を創造する方法だ!」
(p.258-259)
ここを読んだとき、赤塚不二夫さんの名作、「天才バカボン」に登場するバカボンのパパの決めゼリフを思い出しました。
「これでいいのだー!」
たとえそれが理不尽で理解不能だとしても、出た結果に対してこう言うのです。
「どこがいいの?こんなので良いわけないじゃないの!」
そう突っ込みたくなる点が笑いのツボです。
でも、その考え方が、自分の未来を創造するための最適な方法だと言います。
なぜなら、この世に起こること、つまり変化することは、私たちにとって良いことであり、完璧なのですから。
「どこが良いことなんだよ!?突然にリストラされたり、いわれのない中傷をされていじめられたり、何も悪くないのにレイプされたり、通り魔に殺されたりする。そんな人生を暗転させるような変化が、どうして良いことで完璧なんだなどと言えるんだ!?」
そう怒りたくなるかもしれません。
私も、そういう出来事に遭遇された方々に、「それでも良かったんだよ」とは軽々しく言えません。
けれども、見方はいくつもあるということは確かです。
どういう見方を選択するかによって、その人の考え方が決まり、そこから湧き上がる感情が決まります。
そしてその感情によって何を経験するかが決まり、それによって自分自身が創られるのです。
そこでこの本には、神からのメッセージとして、こんなことが書かれています。
「いままであなたが考えてきたかもしれないことよりもさらに高度でさらに複雑な真実を垣間(かいま)見せてあげようか。あなただって、自分にとってはつらい、あるいは損だと思いつつ、それでも何かをやってのけたことがあるのではないか?それが自分にかかわることでも、他人にかかわることでも、何らかの理想にかかわることでも、結局はより大きな善のためだからと実行したことはないか?」
(p.296)
たしかに、私もあります。
それほど大したことではないかもしれませんが、先日書いたように、自分を犠牲にしてでもより大きな善のために、2つの決断をしました。
そしてそれがきっかけとなって、今のタイでの生活があるのだと書いたとおりです。
「さあ、魂だってそれと同じことをしているかもしれない、とわかってきたかね?魂という存在が自分の旅の一環として−−自らの進化を進めるために・・・・・・あるいは誰かの進化を進めるために−−そうしているのかもしれない、とは思わないか?」
(p.297)
どう考えても理不尽で、ひどいことだと思われる現実の奥底に、自らを犠牲にしてまでより大きな善を行おうとした魂の決意があるのかもしれない。
その可能性があるかもしれないと、考えられないでしょうか?
希望を打ち砕かれて自殺する人の人生に触れることで、貧困という条件の中で盗みを働く少年の目を見ることで、私たちは常に、「わたしとは何なのか?」という問いをつきつけられます。
「知ったことじゃない。わたしには関係ないよ。」
そう考える私が、本当の私なのでしょうか?私らしい私なのでしょうか?
それとも、勇気を奮い立たせて愛に生きる決断をするのでしょうか?
いずれにせよ、そういう人たちがいてくれたからこそ、私はそれについて考え、何らかの態度を表明することができるのです。
つまり、その人たちは、私が私らしさを選択するためのお膳立てとして、あえてそういう人生を生き、私に示してくれているとも考えられます。
自殺した人の魂は、盗みを働く人の魂は、じっと私の決断を見守っているでしょう。
「さあ、チャンスは与えたよ。今度はあなたの番だ。あなたは、どうするの?どういう自分であろうと決めるの?どういう自分を経験するの?」
そう問われているように思うのです。
2013年02月11日
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