「神が存在するなら、どうして悪人をのさばらせておくのか?」
子どものころから、私も気になっていた質問の1つです。
現実的に、悪人と呼ばれる人はなくならないし、世の中はけして善意だけで動いてはいません。
どうしてこうなのでしょう?
それに対する一般的な回答は、以下のようなものがあります。
「だから神なんて存在しないんだよ。」
「神は愛だから、ぎりぎりまで審判の時を遅らせてくださっているのだ。」
「裁きは死後にやってくる。悪人は地獄へ落とされ、善人は天国へ導かれる。」
どれも、「なるほど」と思わせるものがありますが、私は納得できませんでした。
「神が存在しないとするなら、どうして私たちは存在するのか?偶然?だとしたら、何のために生きるの?」
「神が審判の時を遅くするお陰で、善人が苦しまなければならないなんて、理不尽ではないか?善人を見殺しにすることが、神の望みなのか?」
「死後に最後の審判をくだすとしたら、もう悪人は救われない。それで、愛の神は平気でいられるの?我が子が地獄で苦しんでいるというのに、一部の子が天国へ来れば、それで満足なの?」
このように、それらの答が真実だとするなら、どうにも納得できない疑問が生まれるのです。
そんな中で、「神との対話」に出会いました。
この本を読むと、神について、裁きについて、驚くべきことが書かれていました。
まず、「裁きは存在しない」と言うのです。なぜなら、私たちの意志が神の意志だから、私たちが神の意に反することはあり得ないのだと。
つまり、神が定める絶対的な善悪は存在せず、私たちに従わせなければならない規律もないから、裁く必要性がないと言うのです。
私たちは永遠に存在する神の一部であり、神そのものであるのですから、傷つけられることも、傷つくこともないのだと。
この世で起こっている現象は、単に幻想に過ぎず、私たちが自分自身を経験する場として創られたもので、私たちはそのプロセスの中にあると言います。
したがって、神は生命であり、生命というプロセス、生命というシステム、生命というエネルギーなのだと。
この考え方は、私にとっては斬新でした。
けれども、よくよく考えてみると、他にも同じことを言っている人や本などがたくさんありました。
聖書も読み方を変えれば、まさにそういうことを言っていますし、仏教も、たびたび書いているように、般若心経はこのことを言っています。
ただ、現実からはあまりにかけ離れて見えるために、人々は聞かされても、そのまま信じることをしなかったのでしょう。
自分の頭が納得できるように考え方をねじ曲げて、理解したつもりになったのだと思います。
しかし、そうやってねじ曲げた考えは、必ず破綻します。理屈が通らないからです。
一部の人を一定期間だますことはできても、大勢の人を長期にわたってだまし続けることはできませんから。
人類の進歩は、ここ数世紀で格段にスピードアップしています。
神に対する理解も、あと数十年で大きく変貌するのではないかと思いますね。
「神との対話」で驚いたことの中に、モーセの十戒に対する解釈があります。
旧約聖書の「約」というのは、契約の「約」です。つまり、旧(ふる)い神との契約です。
それがモーセの十戒で、「殺してはいけない。盗んではいけない。・・・」と言うように、人間が果たすべき10個の約束(規律)があるとされました。
「ほら、神は人間に規律を課し、従わなければ裁くと言ったんじゃないの。」
たしかに、そう思われていました。
でも、「神との対話」では、そうではないと言います。
これは契約ではなく、神の言質(げんち)であると。
人間があるレベルまで進化したときには、こういう現象が起こるから、それとわかるだろうと神が言ったと言うのです。
「あなたは殺さなくなるだろう。あなたは他人の物を盗まなくなるだろう。・・・」
規則だから、義務だからではなく、私たちの自由意志において、そうしたいからそうするのです。
私たちは、そういうレベルにまで進化できるでしょうか?
私はできると思います。
なぜなら、私たちの本質は自由であり、愛だからです。
それらは私たちにすでに備わっている性質であるから、ただそれを思い出すだけで、私たちはそういうものとして生きる(表現する)ことが可能だと思うのです。
2013年02月08日
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