自然界は、その全体がシステムではないかと思うほど、密接な関係で保たれています。
たとえば、植物と動物の関係もそうです。
動物は生きるために酸素を必要としますが、その供給源は植物です。
つまり、植物の存在がなければ動物は存在できません。
でもこのくらいなら、最初に植物ばかりの世界があり、大量に作られた酸素をエネルギー源とする仕組を持つ動物が、あとから生まれたとも説明できます。
では、植物と昆虫の関係はどうでしょうか?
植物が交配するためには、昆虫の働きが不可欠です。
また昆虫は、植物の花の蜜などを餌としているので、植物が存在しないと生存できません。
いったい、どちらが先なのでしょう?
特に、ある特定の昆虫によってだけ交配が可能な植物がありますよね。
ハンマーオーキッドなんて、そのハチのメスの形になることで、オスバチが間違えて抱きかかえて飛ぼうとする習性を利用し、オスの身体に花粉をつけるのです。
ああいうのって、いったい誰が考えたのか不思議になりませんか?
突然変異と適者生存という仮説の組み合わせで説明できなくもありませんが、猿がワープロを打ったら偶然に源氏物語が作られていたというのに等しい感じがします。
鶏と卵がどっちが先かという話もありますが、私たちには、なぜ自然界が今こうなのかという謎を、まだほとんど解き明かせずにいます。
偶然だと一言で片付けることも可能です。
けれども私は、これらを偶然と呼ぶには、あまりに恐れ多い気がするのです。
「「東の大富豪」の教え」にもありましたが、意味のある偶然の一致によって、その人固有の成功に導かれるという考え方があります。
直感と表現することもできますが、自分の中だけで閉じた問題ではなく、他者との関係で起こることです。
たとえば、たまたま今の問題を解決してくれる本と出合うようなことはありませんか?
私は、そういうことが何度もあります。
今読んでいる「超訳 ニーチェの言葉」にも驚かされました。
ニーチェという哲学者の名前はよく知っているものの、その思想については、あまり詳しくありませんでした。
話題になったので買ったのですが、最近まで「積んどく」状態でした。(笑)
その本の冒頭に、ニーチェという人は、論理的に考えて思想を組み立てていった人ではなく、思いつくがままに言葉を置いていくようなタイプだったと書かれていました。
いわば哲学者と言うより、芸術家に近い存在だと。
「神は死んだ」という有名な言葉もあるように、キリスト教道徳を批判し、真の人間のための価値観を追求したのだと言います。
このときふと、これは「神との対話」シリーズと似たような思想があるのではないかと思いました。
そして最初の文章を読んだとき、とても驚いたのです。
「初めの一歩は自分への尊敬から」と題した文章では、自己卑下をやめ、自己肯定感を高めるようにということが語られています。
まだ何も結果を残していない自分を尊敬することが大切なのだと。
そうすれば、理想に近い自分、他人が見習いたいと思うような自分になれるからと言うのです。
「神との対話」シリーズでも、既存のキリスト教の価値観である原罪について、同様のことを語っています。
もともと人は罪の中に生まれ、その罪は自分でどうすることもできず、ただ神にすがるしかないというのは、おかしいと言うのです。
すべてであり、全知全能で愛の神が、なぜそんなことをしなければならないのか?
その疑問は、私自身も持っていたものでした。
ニーチェの言葉には、なぜ人間が尊敬されるべきなのか、その理由の説明はありません。
けれども、ズバッと核心をついているという点で、何らかのインスピレーションを受けたのだろうなと思うのです。
私たちはつい、自分を過小評価しがちです。
「私なんて、大したことありませんから。」
そう言って謙遜します。
私は子どもの頃から、自慢ばかりされるのも嫌いでしたが、謙遜ばかりしているのも嫌でした。
集会で前の方が空いているとき、主催者が「どうぞ前の方へお座りください」と勧めます。
そんなとき、「いや私みたいな者が前に座るのは恐縮ですから、どうぞそれにふさわしい方に座ってもらってください。」などと言って遠慮するのです。
主催者が「前にどうぞ」と言っているのですから、「ではお言葉に甘えて」と言って前に座れば良いではありませんか?
本当は、「私は前に座ると目立って恥ずかしいから嫌だ」という気持ちなのに、それを隠して、謙遜という形で表現するのを腹立たしく感じたのです。
もし自分に自信があれば、堂々と理由を言えたはずです。
「前に座ると見られているようで恥ずかしいから、後ろに座らせてくださいな。」
まあこのくらいはっきり言える人なら、見られるくらい恥ずかしくもないでしょうけどね。(笑)
何もない自分を素晴らしい存在だと評価すれば、他人もまた同じであるとして、尊重することができます。
謙遜は美徳とされますが、私には他人をごまかす手段のように感じられます。
謙遜するより、他人も自分も尊敬した方が良いと思います。
それだけの価値がある存在だと思うからです。
それにしても、ニーチェがこういう思想家だったとは知りませんでした。
今、このとき読み始めたのも、偶然ではないような気がします。
私の状況からして、このタイミングがベストだというとき、読める環境が整って、読みたいという気になって、本を手にとったのです。
この本を作った人は、私がこのときに本を読むなどということは知らなかったでしょう。
けれども、私はこの本を手にした。
この瞬間、私と本を作った人の人生がつながったのです。
でもそれは表面的なことで、実はもっと深い所でつながっていて、絶妙なタイミングで表に出てきただけという気がします。
この世は複雑に絡み合ったパズルのようになっていて、それぞれのピースには、そのピースにふさわしい時間と場所が提供される。
そんなイメージを持っています。
そう考えられるのは、すべては「ひとつのもの」だと思うからです。
すべてが「ひとつのもの」であるなら、当然そうなるはずですから。
2013年02月02日
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