桜宮高校の体罰に関して、まだ世間の関心は薄れないようです。
読売新聞には、桑田真澄さんの体罰は不要とする記事が載っていました。
一方で産経新聞には、それでも教育に体罰が必要という論が載っていました。
編集委員・大野敏明さんの署名記事です。
私は、これまでに「体罰は愛情か?」や「教育に体罰が必要か?」で書いたように、体罰は不要だという考え方です。
そこにそう考える理由を書いたので、ここでは割愛します。
ただ、産経新聞の主張は、ちょっと考えてみる必要があると思ったので、それについて取り上げてみたいと思いました。
記事では、「こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。」として、体罰が必要と考える一定条件を示しています。
それによると、以下のことがその条件のようです。
1.対象は故意行為(わざと不正や悪事を行うこと)に限る
2.暴力を振るう生徒を対象にする
3.体罰は1発に限る
この条件からすると、桜宮高校の体罰は条件を満たしておらず、体罰ではなく暴力と呼ばれるものだと主張します。
そして、最後にこう締めくくっています。
「教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。」
私は、こういう主張(考え方)があることを批判はしません。
おそらく、少なからずこう考える方がおられるでしょうし、そういう人の中で、きちんと論理立てた主張をされている点で、この意見を素晴らしいとさえ思います。
ですが、賛同はしません。私は、この論理を採用したくないのです。
なぜか?ということを以下に書きます。
まず故意の場合、つまり生徒が悪いこととわかっていてやっているときは、体罰を与えてもかまわないという論理です。
「ねじれた心を正すため」だから、ショックを与えて正気を取り戻させることが大切だと言うのでしょう。
だから3.の体罰は一発のみということにつながるのでしょう。
でも、ショックを与えるのに、どうして肉体的な痛みを与えなければならないのでしょうか?
何かの本で読んだ、あるエピソードを紹介しましょう。
その人が子どものころ、何か悪いことをしたのだそうです。
父親は叩かれるとかなり痛いと思われる棒のようなものを持って、その少年に庭に出るように言います。
少年は、叩かれると思い目をつむりました。
ビシーッ!!
強烈な音がしましたが、自分はまったく痛くありません。
恐る恐る目を開けると、そこには自分の手を打ちつける父親の姿があったのです。
「お前が悪いことをするのは、親の私の育て方が悪かったからだ。だから、私は自分を罰さずにはおれない。」
そういう父親の姿を見たとき、思わず少年は叫びました。
「お父さん、ごめんなさい。ぼくが悪かったんです。もう二度としません。ですから、もう叩くのをやめてください。」
その少年は、二度と父親を裏切るようなことはすまいと決意したのだそうです。
弱さにかられて、道を踏み外してしまうことはあるでしょう。
けれども、それを叩いたからといって直るものではありません。
かえってひねくれてしまう可能性もあります。
一発殴って、それでも直らなかったどうするのでしょう?
体罰が一度きりなら、その後はどうするのでしょうか?
私は子どものころ、父親からも先生からも体罰を受けました。
そのたびに「ごめんなさい」と謝らされましたが、心から詫びたことは一度もありません。
その場しのぎです。
心の中では、「たしかに悪かったけど、でも、...」と、自分の言い分を主張していたのです。
信頼関係があれば体罰もOKだと言いますが、本当に信頼関係があるなら、体罰は不要ではないでしょうか?
愛する人が苦しむことを、どうして我慢できるでしょう?
愛する人を喜ばせたい。それが人というのものではないのでしょうか?
野口嘉則さんの「僕を支えた母の言葉」にもあるように、絶対的に信頼するときに見えるのは、その子の本当の姿です。
たとえどんな悪いことをしてもその本当の姿だけを見て、揺るがない愛情を注ぐことでしか、人を変えることはできません。
信頼とは、その人の本質が素晴らしい存在であることを信じ、少しも疑わない気持ちです。
見た目が悪そうに見えても、そんなことには動じない心です。
そういう信頼をした上で、相手がその信頼に応えたとき、初めて信頼関係が結ばれるのです。
相手が良くしてくれたら自分も良くしてあげるというのは、単に取引関係であって、本当の信頼関係ではないと思います。
蛇足ですが、2.の暴力を振るう生徒に対する体罰で正当防衛を根拠にあげていますが、論理的におかしいと思います。
まず、いくら先生が体罰を禁止されているからと言って、正当防衛の権利がないわけではありません。
暴力をふるう生徒からは逃げればよいし、逃げ切れなければ防戦するしかないでしょう。
それと体罰は別問題です。
生徒に売られたケンカに応じることと、正当防衛はまったく違うということに、気づいていないのではないでしょうか。
そして、殴られる痛みを教えるために体罰を与えるということですが、それもおかしいと思います。
では相手はなぜ殴るのでしょう?殴られても痛いと思わないから殴るのでしょうか?
殴られると痛いとわかっているから、それが効果があると思っているから、だから殴るのではありませんか?
殴られたら痛いのはわかっているのです。想像すれば理解できます。
問題は、痛みがわからないことではなく、痛みを感じる相手の立場に立てないことではないでしょうか?
どうして相手の立場に立てないのか?
それは、自分が受け入れられていると感じていないからです。
「自分が受け入れられていないのに、どうして相手を受け入れなければならないのか?」
そう感じているのです。
痛みを与えたら痛さを理解できるということは、たしかにあるでしょう。
けれども、痛さを理解したからこそ、相手に痛みを与えようとしているのです。
それを、知っている痛さの程度が足りないからと考えていたら、どこまでもエスカレートしますよ。
たとえば、相手に骨折させるような暴力を振るう生徒には、同じように骨折の痛みを味わわせるのですか?
腕を切り落とすようなことをする生徒には、同じように腕を切り落とすのですか?
それでは旧約聖書(またはハンムラビ法典)の「目には目を、歯には歯を」の世界ではありませんか。
それが教育なのでしょうか?
私はこのように考えるので、やはり「一定の体罰は必要だ」とする考え方は受け入れられません。
体罰とは、肉体的な痛みを与えることで、ある特定の価値観を強制しようとする行為です。
特定の価値観を強制する必要があるという考え方は愛ではないし、愛のないところに真の教育はないと思うのです。
2013年01月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。