2013年01月22日

アルジェリアの人質事件に思う

また、悲しい事件が起こりました。

アルジェリアの人質事件で、日本人が何人も亡くなられたというニュースです。

亡くなられた日本人は7人とも10人とも報道されていますが、ご冥福をお祈りしたいと思います。


犯人グループは、イスラム過激派と言われています。

隣国マリのイスラム反政府勢力に対し、フランス軍が攻撃を加えたことで、それをやめさせる目的だとの報道もありました。

ただ、周到な準備をしていたことがわかってきたため、今回のフランス軍の行動に対する抗議が直接の動機ではなく、以前からある、イスラム教勢力対キリスト教勢力(西洋先進諸国)の対立によるものと思われます。


私は以前、「宗教はアヘンですか?」と題して、既存の宗教の問題点を指摘しました。

つまり、オウム真理教やイスラム教だけが危険な思想というわけではなく、キリスト教も仏教も同じだという指摘です。

なぜなら、永遠の生命というものを肯定した時点で、この世の命よりも重要なものがあるという価値観を肯定することにつながるからです。

そして、宗教指導者が意思決定し、それに従わなければその宗教の最高権威である神(仏)に反するとされるなら、他者の命を奪うことなど平気でできるからです。



実際、キリスト教は200年に渡る十字軍遠征でイスラム教徒を虐殺し、諸々のものを奪い取り、女性を犯してきた歴史があります。

「神がそう命じた」と、宗教指導者が言ったからです。

それと同じことを、今はイスラム教徒が行なっているだけです。

ユダヤ教徒も同じです。

何千年か前に自分たちの祖先が住んでいたという記録だけを根拠に、すでにその地に千年に渡って住んでいた民族を辺境に押しやり、二流国民として扱い、虐げています。

これも「神がそう命じた」と、宗教指導者が言ったからです。


仏教とて例外ではありません。

日本国内においても仏教勢力が力を持ち、政治に口出しするようになり、力づくで自分たちの意を通そうとした歴史があります。

神道だって同じことです。

利用されただけと言うかもしれませんが、天皇陛下は現人神(あらひとがみ)でした。

神の命令で戦争に行って、神国日本を守るために戦い、敵兵や市民を殺したのでしょう。


もちろん、どの戦いにおいても、「自分たちは守ろうとしただけだ」という理屈はあります。

それも1つの見方です。

でもそれと同時に、絶対なる神(仏)という権力の命ずるがままに、暴力や殺害を繰り返してきている、と見ることもできるのです。

 

「もう、こんなのはいやだ。うんざりだ。何とかしたい。」

多くの人が、そう考え始めています。

何のために、こんな愚かなことを繰り返さなければならないのでしょうか?


でも、この不毛な争いをやめるためには、私たちの信念を変える必要があります。

新たな信念は、こういうものです。

「神は、何も望まない。」


この一言で世界中が変わると言ったら、あなたは驚くかもしれません。

そんな簡単なわけがないと、不審に思うかもしれません。

けれども、理屈で考えると、これで世界が変わるのです。


なぜなら、「神が何も望まない」としたら、「神が何かを命じた」という言い訳ができなくなるからです。

神が人間にある特定の考え方を持つことを要求したり、特定の行動をとることを要求しないとするなら、何も命令することがないはずだからです。

神は「戦え」とは言わないし、「殺せ」とも言わない。

もちろん「望まない」のですから、命令だけではありません。

人間が神の意を汲んだ特定の考え方や行動を選択したからという理由で、神が喜ぶということもないのです。

したがって、神の意に添うことをすれば天国へ行き、神の倫理にしたがわないなら地獄へ行くということもありません。

神は人に、完全なる自由を与えた。自分で自由に考えられるようにした。何を良いと言うのか、何を悪いとするのか、それぞれの人が自由に決められるようにした。

何かを考えたからと言って、何かをしたからと言って、罰を与えられることがない。

そういう完全な自由こそが、人の本質なのです。


もしこの信念を人々が受け入れるなら、宗教指導者は力を失うでしょう。

人々はもう、宗教指導者にお伺いを立てる必要性がないからです。

「女性は高等教育を受けても良いのでしょうか?」「金曜日に肉を食べても良いのでしょうか?」「日曜日の礼拝に参加しないと、何か悪いことが起こりますか?」「改宗すると地獄に落ちるのでしょうか?」

天国というアメと、地獄というムチによって、人々を従順にしてきたのが宗教であり、宗教指導者たちでした。

その権威が崩壊し、宗教は新しいものとして生まれ変わらざるを得ないでしょう。


これは何も、宗教だけの問題ではありません。

私たちの信念の問題だからです。

私たちが無意識に何かが必要だと考えていること。それが私たちの信念です。

その信念のために、宗教教義は相互補完的に使われてきたとも言えるのです。

無宗教に近くなった日本人は、最近は「仏罰(バチ)が当たる」とか「神罰が降る」と言う代わりに、「非常識だ」とか「空気を読め」と言って、暗に大多数という神格化された存在に帰依することを求めているようです。

自分以外の何かに権威を与え、それに従わなければ罰せられ、従えば恩恵が受けられるとする考えが、私たちの信念になっているのです。


今、私たちは、この信念を変えられるかどうか、という課題に直面しています。

アルジェリアのテロの問題に限らず、重要な多くの問題が、この課題によるものだと思うのです。


もちろん、だから今すぐ武器を放棄して丸裸になりなさいと、要求しているわけではありません。

そんなことをしても、おそらくは変わらないと思うからです。

そうではなく、私たちの信念を変えるようにしませんか。

具体的には、必要性を少しずつ減らしていくことです。

どうでもよいと思えることから順に、必要性を好みに変えるのです。


そんな個人の変化が、どうして世界の変化につながるのかと、いぶかられるかもしれません。

けれども、どんな小さな変化であっても、世界に伝わらないものはないはずです。

なぜなら、私たちは「ひとつのもの」なのですから。

時空によって隔たれているというのは幻想で、本質的にはひとつのもの。

それは潜在意識がつながっているのと、同じことを言っています。

私たちの本質が「ひとつのもの」でつながっているなら、どうして個人の変化が全体に影響しないなどと言えるでしょうか。

「何もできないちっぽけな人間だ」などと自己卑下する暇があったら、もっと自分を愛して大切に扱いませんか?

本質的にはつまらない人間や無価値な人間など、たった1人もいないのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:55 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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