2013年01月11日

教育に体罰が必要か?

昨日のブログに「体罰は愛情か?」という記事を書きました。

結論から言うと、体罰は愛情ではありません。

なぜなら、体罰を与えるのは、自分の価値観の押しつけだからです。

愛情は、相手の自由を尊重します。

ですから、相手を自由にさせないことを望む体罰は、愛情とは言えないのです。

 

では、教育に体罰は必要でしょうか?


「体罰は必要だ」という意見が、まだけっこうあるようです。

モンスターピアレントと呼ばれるような、学校に怒鳴りこんでくる親が増えたことや、教師をバカにする生徒が増えたことなども影響していそうです。

先生が生徒に指導するのが教育だから、それには強制力を伴わないといけない、と考えるようです。

どうしても言うことを聞かない子どもを黙らせ、従わせるために、必要最低限の暴力は認められるべきだと言うのです。

また、本気で子どもを良くしてやろうと思えば、従わない子どもに手を上げるのも当然だという意見もありましたね。


私は、それは教育に対する誤解だと思うのです。

教育とは何かを与えることではなく、子どもの中から引き出すこと。

それがEducation(=教育)の意味だと習いました。

一応、広島大学学校教育学部に入学したもので。

ラテン語で「外へ導く」という意味。

つまり教育とは、金太郎飴のような規格品の人間を作るのが目的ではなく、それぞれの個性を引き出し、その人の良さを最大限にする手助けをするものなのです。

その意見からすると、教師が良いと思った価値観を生徒に押しつけるのは、教育とは呼べないでしょう。

 

ここでも、前提が間違っているのです。

それはつまり、教師が良いと思う価値観が、この世の普遍的な価値観だと錯覚することです。

人それぞれ価値観が異なっているのが当然なのです。

それなのに、自分の価値観が最高だと勘違いしているのです。

そして、その自分の価値観に従わせることが、もっとも相手のためになることだと信じています。


それが、体罰を与えてでも従わせなければならない理由と考えられているのです。


価値観が人それぞれでなければ、どうして個性などが生まれるでしょうか?

音楽好きもいれば、スポーツ好きもいて、それが個性でしょう。

音楽とスポーツと、どっちが有意義かという価値観が、それぞれ異なっているのです。


「そういう価値観と倫理観は違うでしょう?」

それも間違っています。

倫理と呼ばれるものも、人が勝手に作り上げた価値なのです。

その証拠に、中世のヨーロッパでは、魔女狩りをすることが正義でした。

今、魔女狩りは正義でしょうか?

時代が変われば、倫理は変わるのです。


たとえば、オランダなど売春を認めている社会があります。

一方で日本のように、表向きは売春を禁止してる国もあります。

売春は、倫理的に良くないと考える人も、日本人には多いです。

でも、それが絶対的な価値観でしょうか?

そうは言えません。人それぞれなのです。

 

まずは、他人と自分は違うのだということを、私たちは受け入れるべきです。

そうしなければ、ずっとその違いを埋めようとして苦しむことになるでしょう。

違って良いのだと受け入れて初めて、相手の自由を認められるようになります。

相手には相手の良さがある。

そう認めることで、相手の中に良いものが見えてくるのです。

それを見つけ出し、伸ばしてやることが教育です。

ですから教育に体罰は、100%必要ないと言えるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:06 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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