最近は、誰もがネットで情報発信できるようになりました。
それによって、身近ではない人の考えも、簡単に知ることができます。
特に匿名性の高いものだと、言葉遣いもひどいし、読むに耐えない表現が多々見られます。
でもそれは、ネットが悪いとか、匿名というシステムが悪いというような問題ではないと思うのです。
それらの根底には、「自分が正しい」という信念があり、それが元となっている気がします。
たとえば、昨日のニュースで、医薬品のネット販売を規制する省令を無効とする判決がでました。
そのニュース記事へのコメントにも、賛成派と反対派がそれぞれの意見を書いています。
その中に、「薬害が起きても国のせいだとか言うなよ」みたいな、捨て台詞的なものがあります。
自分の意見が結果的に否定されたことに対する腹立たしさが、その言葉に現れています。
あるいは、「副作用とか心配だな」というコメントに対して、「心配なヤツは買わなきゃいいだろう」みたいな相手を非難するようなコメントも。
こういうのを読むと、本当に心がげんなりします。
どうしてもっと穏やかに議論ができないのでしょうか?別に激高するような問題でもないのに。
その答が先ほど言った、「人はみな自分が正しいと信じている」という信念です。
どんな人も多かれ少なかれ、そういう信念を持っています。
そして悪いことに、「何かを正しいとすれば他は間違っている」という信念も持っています。
つまり、ここで言うところの正しさとは、絶対的なものだということです。
ですから、自分が正しいとしたら他の意見を言う人は間違っていることになり、それで他人を否定するのです。
ただ、他人の意見を否定するだけなら、それほど大きな問題にはなりません。
穏やかに議論を重ねることは可能だからです。
それができずに感情的になり、辛辣な皮肉を浴びせたり、暴言を吐いて黙らせようとしたり、ときには暴力を振るうことになってしまうのは、どうしてでしょうか?
それは、自分の意見を自分そのものと感じているからです。
つまり自分の意見が批判され、否定されるということは、自分自身が批判され、否定されたのと同じなのです。
少なくともそう感じるために、自分を守らなければならない衝動にかられるのでしょう。
だから、何が何でも自分の正当性を主張しようとして必死になるから、感情的になってしまうのです。
そうなると、周りの人も不愉快になるでしょうけど、感情的になった人も気分が良いはずがありません。
そしてその気分が悪い原因を、自分ではなく他者に求めます。
なぜなら、自分のせいだと思うと苦しくてたまらないからです。さらに否定された気分になるからです。
他者が原因で自分が傷ついた。そういう被害者になることを選択するのです。
これを解決するには、実はその苦しくてたまらないだろうと予測した、「自分が原因」ということを受け入れるしかありません。
上記に書いたように、自分が被害者だという認識を選択したのは、自分自身です。
逆に言うなら、被害者だという認識を持たなければ、誰も被害者にはならないのです。
また、その前の段階で、自分の意見が否定されたとき、それを自分が否定されたと考えたのも自分です。
意見が否定されただけで、自分は何も否定されていないと考えることもできます。
また仮に、相手が悪意を持ってあなたの人格を傷つけるような暴言を吐いた場合でも、その暴言を引き受ける必要性はありません。
あなたは、あなた自身が認めた存在であって、他の誰もあなたの存在を規定できないからです。
ですから、相手の暴言を信じなくて良いのです。あなたは、あなたが傷つこうと決めたとき以外、傷つくことはないのですから。
最後に、最初の信念が問題になります。正しさは絶対的かどうかという信念です。
結論から言えば、正しさは1つではありません。100人いれば、100通りの正しさがあります。
本当は微妙に違っているのに、集約して同じだと考えているだけです。
なぜそう言えるかというと、価値観は人それぞれだから。そしてその価値観は、それぞれの人の個性から生まれているからです。
つまり、人に個性があるのが当然なら、それぞれの人の考え方は違うのが当然であり、考え方の習慣が価値観ですから、自ずと価値観も異なってくるのです。
最初のニュースの問題でも、どっちが正しいかを議論することは不毛です。
その人の価値観にしたがえば、その人の意見は常に正しいからです。
ただ社会として、何らかの方針を出さなければならないのでしょうから、それを1つに決めるだけの話です。
裁判とは、それを決めるだけのことをしただけで、絶対的な正しさを示したわけではないのです。
2013年01月12日
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