2013年01月10日

体罰は愛情か?

また残念な事件が起こりましたね。

桜宮高校のバスケット部の主将が、顧問の体罰に耐えかねて自殺したそうです。


強いチームに育てるために、あえて叱られ役をつくり、平手打ちなどの体罰を加えることで、指導力を発揮しようとしていたようです。

その方法によって常勝チームが作られたという実績があるために、「先生がやってきたことは間違っていない」と擁護する声も聞かれるとか。

古いタイプの熱血指導で、「愛情があれば体罰も許される」と考える人もまだ多いようです。


私が中学生の頃、指導教員による体罰は、日常茶飯事でした。

部活の練習をサボっていたのがバレたとき、全員が横一列に並ばされて、端から順に平手打ちをもらいました。

軟弱な野球部でしたから、そのくらいの体罰はまだマシな方です。

県大会での優勝、つまり全国大会出場を目指すバレー部は、もっとひどいものでした。

その平手打ちのあと野球部員は、体育館で練習していた女子バレー部の練習を見学させられたのです。

レシーブに失敗するごとに指導教員は、暴言を吐き、ボールを投げつけ、ときには蹴飛ばしたり。それはまさにシゴキでした。


「さすがに上を目指すところは違うなあ。」

そう感心して、私も自宅で素振りをするなど、真剣に練習に取り組むようになりました。

体罰を悪いこととは、まったく考えていなかったのです。

カミナリ親父の鉄拳制裁が、まだ残っていた時代ですから。


でも、では体罰を喜べるかと言うと、そうではありません。

体罰を受けたくないから、何かを自分に強いるようになるだけです。

そしてその気持が折れたとき、不幸なことが起こるのでしょう。


その強かった女子バレー部も、のちに部員が集団で練習をボイコットする事件が起こりました。

体罰に耐えかね、連帯して指導教員に抗議したのです。

 

はっきりと言いましょう。

体罰は愛情ではありません。

単に自分の思い通りにさせたいだけです。


もし全員が強くなりたいと思っているなら、どうして体罰が必要でしょうか?

強くならなければならないという必要性を感じて、相手の自由を尊重せず、自分の考えを押し付けているだけではありませんか?

愛情とは自由です。また自由でなければ愛せません。

必要性を感じるというのは、不自由な状態に自分を置くこと。それで愛せるはずがありません。


相手には相手の価値観があり、相手なりの幸せがある。

それを認めることが愛情です。

「これが幸せなんだ」と自分が思ったことを相手に押しつけ、「お前を幸せにしてやりたいだけなんだ」というのは、愛情ではないのです。


人それぞれに価値観が異なることに気が付かないことが、まず最初の過ちです。

相手が望むことと、自分が望むことは異なります。

自分が期待することと、相手が願うことは違います。

ですから、相手に何かをしてほしいと思うなら、お願いする他に方法はないのです。

それが相手の自由を尊重しつつ、自分の考えるとおりに相手に動いてもらう唯一の方法です。


そうでないとしたら、相手が自分の考えを受け入れ、それを相手自身の考えとしてもらうことです。

それなら相手は、自分の自由意志で動くことになりますから。


最近では、体罰も暴力だという認識が広がってきました。

けれども、まだ不十分だと思います。

暴力だけでなく、暴言も、命令さえも、相手の自由を奪おうとする行為だということで、その本質は同じものです。

程度の違いがあるだけで、愛情でないことには違いがないのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:49 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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