2013年01月07日

死ぬことが怖くなくなれば何でもできます

新刊の読書とともに、「神との対話」シリーズも読み進めています。

シリーズ8冊目の「明日の神」を読み終え、9冊目の「神へ帰る」を読み始めました。

これは2007年発売の本で、410ページ、2千円+消費税でした。

神へ帰る


私が、絶対的な安心という温かいものに包まれた感じがして、涙が止まらなかったという体験も、この本を読む前後だったように思います。

「そうかー。なーんにも心配することはないんだなー。」

素直にそう思えたのです。


この本は、人間の死をテーマにした内容になっています。

驚くべきこと、常識では受け入れがたいことが、ここには書いてあります。

そして、ここに書かれている言葉を信じるなと書いてあります。

私たちの真実は、私たちの心の中にあるのだからと。


とっかかりのショッキングな言葉を引用しましょう。

誰でもすべてを自分自身のためにしている。そこに気づけば、突破口が開ける。そして、死についてもこの真実があてはまることが理解できれば、二度と死を恐ろしいとは思わないだろう。

死を恐れなくなれば、生も怖くはない。最後の瞬間まで、自分の人生/生命を充分に生きることができる。

(p.21)


私は子どもの頃、死というものを考えると悲しくなって、布団にもぐって泣いた体験があります。

どうなるのかわからなくて、自分のすべてが消えてしまうようで、怖くて不安だったのです。

そこから脱却するために、「死なないと信じれば死なないのだ」と、思いが現実化するという思想を信じようとしました。


けれども、この世に生まれて死ななかった人はいません。

「どうせ死ななければならないとしたら、人はどうして生きなければならないのだろう?」

そういう疑問を持っていました。

また一方で、どうぜ生きないといけないなら、せめて輝かしい生き方をしたいとも思っていました。

特攻隊員のように、お国のために、愛する誰かの為に、あるいは見ず知らずの誰かのために、自分の命を捧げるような死に方をしたいと。

それこそが、私にとって価値のある生き方、私の人生に価値を与える生き方だと思っていました。


「神との対話」シリーズを読むようになって、「生命は永遠だ」という考え方を受け入れるようになってきました。

もともと仏教では、輪廻転生と言って、何度でも生まれ変わることを言っています。

キリスト教などでも、死んだ後は天国とか地獄へ行き、永遠に生きるのだと言っています。

すでに散々聞かされていた考え方だったのに、ずっと受け入れずにきていたのですね。


永遠の生命を受け入れるようになると、また別の疑問が出てきます。

「なぜ人は死ぬのか?」

死が単に姿を変えることであったとしても、なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?

今までの生活をずっと永遠に続けていくことでは、何か問題なのでしょうか?

そういった疑問に対して、「神へ帰る」という本は、明確な指針を与えてくれたように思います。


考えてみれば、「死を自分で選んでいる」という考え方は、自明のことだったのです。

なぜなら、生まれる時でさえ自分であらゆることを選んできているのですから。

印鑰理生(いんやくりお)くんの「自分をえらんで生まれてきたよ」という本にもあるように、自分の健康状態はもちろん、親や環境も選んで生まれてくると言います。

このことは、最近はよく知られていることです。

また「引き寄せの法則」によって、生きている間は、自分の思考が現実を引き寄せていると言います。

それならば、死ぬことも、自分が決めていると考えても不思議ではないではありませんか?

 

私はすでに、死ぬことそのものへの怖さはありません。

死は喜ぶべきことなのかもしれないとさえ、思うようになっています。


けれども、その言葉から「生命を軽んじている」と思われるとしたら、それは私の考えを理解していません。

「ふんだんにあるものは無駄にして、無価値なものとして扱うのが良いと思うのでしょうか?」

私は、そう問いたいと思います。

そう考えてきたから、自然を壊しても平気で、逆に自分の首を絞めるようなことになっているのではないでしょうか?

永遠の生命があるなら、怖れや不安を抱く必要性はないし、維持するために何かをしなければならないということもありません。

しかし、いえ、そういう自由があるからこそ、自分らしく生きることが可能なのです。

何の制限もないから、どんな生き方でも選べるから、自分らしさを選べるのです。

「豊富に十分にあるなら、あなたはそれを粗末に扱うのですか?」

「そういう生き方が、自分らしい生き方なのでしょうか?」


自由に責任が伴うというのは、本来はこういうことです。

自由であるから、自分が決めているのだから、自分で結果を受け入れるしかない。

人は、種を蒔いたものを刈り取るのです。



粗末にしてよいと考えるなら、それが自分だと表現したことになるのです。

自分がそういう人間(=ふんだんにあるものは価値のないものだと考える人間)だと宣言するから、宇宙はそういう経験を与えてくれます。

「自分なんかどうせ、誰からも期待されてないんだよ。」

自分が生命を粗末にしたから、自分(=生命)が粗末に扱われるのです。

そんなちっぽけな自分で満足するなら、飽きるまでそれを続ければいいのです。

いずれにせよ人は、自分が変わろうと思うまでは変わらないのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:07 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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