「仏教」と言うと、みなさんはどんなイメージでしょうか?
「葬式」「法事」「修行」「説教」「禁欲」...
あまり明るいイメージがないかもしれませんね。
けれども、私は仏教にはとても素晴らしいものがあると思っています。
それは、この世の本質の探求において、これほど真理を明らかにした宗教はないと思うからです。
しかも、2500年前の1人の人物によって始まったものであり、その人物、シッダールタ太子の修行と思索の中で生まれたものです。
私は僧侶でもないし、本格的に仏教を学んだわけでもありません。
ですから、そういう人たちからすれば、私の理解は中途半端なものに見えるかもしれません。
けれども、他の宗教教義との比較や、私自身の内的探求の中で感じたことがあります。
それを私は、私の真実として受け入れ、表明しています。
したがって、他の人にとっての真実ではない可能性は十分にありますし、それで良いと思っています。
それぞれが自分の心に問うて、自分の真実を見つけることが重要だと思うからです。
仏教で特筆すべき考え方は、輪廻転生です。
この考え方は、キリスト教やイスラム教などにはありません。
人は何度も生まれ変わる。つまり、生命は永遠であることを意味します。
キリスト教などでも永遠の命という言い方をしますが、この世の生は1回限りのものと考えられがちです。
何度でも生まれ変わるということは、何度も違う生き方を試せるということであり、これは私たちにとって福音です。
なぜなら、この世の生を失うことへの恐怖が軽減されるからです。
しかし、それだと何をやっても同じだから、清く正しく生きる必要性がないという考え方になりかねません。
そこで考えられたのが、地獄という考え方です。あるいは、生まれ変わっても人間になれず、畜生に成り下がるという考え方です。
そうやって脅さなければいけないと、誰かが考えたのでしょうね。
しかしそれは、大変な矛盾です。
それによって「何のために生きるのか?」という答えに、たどり着けなくなってしまったからです。
清く正しく生きなければ苦しみを与えられるのだとしたら、誰か(=神)がそう仕向けていることになります。
けれども仏教は、この世の創造主(=神)については語りません。
なぜ、清く正しく生きなければならないのか?苦しみを与えるぞと脅されるからでしょうか?
また、清く正しくとは、いったいどういうことでしょうか?誰がその答を知っているのでしょうか?
それに対して仏教は、明確な答えを持ちません。
実は仏教では、本当はそういう地獄などというものはないことを語っていたのでした。
それが、「般若心経の意味がわかった」で書いたことです。
ここには、実にシンプルにこの世の真実が語られています。
あまりにシンプル過ぎて、人びとが信じなかったくらいです。(笑)
般若心経で言っているのは、「この世のすべては空(くう)である」という一言に尽きます。
男も女も、高いも低いも、清いも汚れも、そういう陰陽で示されるような相対的なものは真実の姿ではない、と言っています。
この世にあるのは、ただ空(くう)のみ。それが真実の姿であると言うのです。
だから、貴いも下賎もないし、良いも悪いもありません。
清く正しくなどというものは100%ないことを、般若心経は示しています。
ただ、それでは何が喜びなのか、何が我々にとって良いことなのかが、多くの人は理解できなかった。
だから、そんなことがあるはずがないと、その教えを信じなかったのです。
大乗仏教の中心的な経典であるにも関わらず、あまりにシンプル過ぎて、誰もが知っているのに信じられない経典となっています。
しかし、般若心経の最後は、喜びのマントラで結ばれています。
すべてが空(くう)であることが私たちの救いであり、喜びであることを明確に表しているのです。
私が初めて仏教の教えに目覚めたのは、小学生の時に読書感想文を書くために選んだ「ゴータマ・シッダールタ太子」という本を読んだときでした。
そこには、この世には生老病死という4つの苦しみ、いわゆる四苦があると書かれていました。
老病死の苦しみは、すぐに理解できましたが、生きることも苦だという考えは、まだ子どもで苦労知らずの私には理解できなかったのです。
その四苦や八苦が理解できるようになったとき、すべての苦しみは執着から生まれることが理解できました。
だから仏教では、執着しないことを何よりも大事にしたのです。
しかし、どんなに意識しても、執着を手放すことは容易ではありません。
究極のことを考えてみれば、それがよくわかるでしょう。
たとえば水に溺れたときは、必死になって空気を求めて暴れ、のたうち回るでしょう。
それは、生への執着であり、空気への執着なのです。
もし仮に、それに執着しなければどうなるでしょうか?
たしかに死ぬかもしれません。
けれども、執着によって生まれる苦しみはなく、暴れまわることはないでしょう。
思い出してください。仏教は輪廻転生を語っています。
すなわち死とは姿を変えることであって、命が尽きることではないと言っています。
つまり生に執着する必要性はないのだということを、仏教は語っているのです。
すべてが空(くう)であるということは、空は何にも因らずに存在しているのであって、そこには始まりもなければ終りもないことを意味します。
それはつまり、「永遠」ということではないでしょうか?
またそれは、「すべて」ということではないでしょうか?
それが「すべて」であるなら、どうして他に何かを必要とするでしょうか?だって「すべて」なのですから。
そして他に何も必要としないのであれば、どうして何かに執着する必要があるのでしょうか?
こうしてすべての謎が解決します。
この世のすべての真実の姿が空(くう)ならば、本質が空(くう)ならば、それは永遠であり、すべてなのです。
姿形は変わるでしょうけど、生命は永遠であり、他に何も必要とはしません。
だから執着する必要はまったくなく、執着がないのであれば苦しみは存在し得ないのです。
それは私たちにとって、喜びではないのでしょうか?救いではないのでしょうか?
仏教による救いは、何も阿弥陀仏の再臨を待つ必要性はありません。
私たちは本質的に救われており、改めて救われなければならない存在ではないからです。
ただ、この世の表面的に見える仮の姿を幻想と見抜き、本質は空(くう)であることに気づけば良いだけ。
だから釈迦は、厳しい修行をしたから悟りが開けるのではないと言ったのでしょう。
ただ座って、自分の内部に入って行くことで、私たちの本質に気づく。
それだけで悟りに至ると言ったのだと思うのです。
これが、私が仏教に対して抱いている考え方です。
それぞれの宗派の正当な考え方とは違うと思いますが、私はこれがもっとも筋が通っていると思うし、私の心もこれが良いと感じています。
ですから私の真実として、この考え方を採用しているのです。
そのためのたくさんの示唆を与えてくれた仏教には、心からありがたいと思っています。
2012年12月20日
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