2012年12月14日

これは神様が私に言わせているのだと思いました

私の家族は、特に信心深いということはありません。

家には神棚と仏壇があって、お仏飯と水は、割とよく取り替えていたでしょうか。

私自身は頼まれればやりますが、自ら進んでやったことはありません。


強いて言えば、祖父のために般若心経を唱えたくらいです。

神棚はありましたが、柏手を打った記憶もないほどです。

正月に餅を供えたときくらいは、やったかもしれませんけど。


そんな家庭でしたが、自然と、天には神様がおられて私たちを見守っているのだ、という考えを持っていました。

それはやはり、両親や祖父母から、そういう話を聞かされて育ったからでしょう。

「1粒の米粒には、7人の神様が宿っておられる。だからご飯粒1つも残さないように食べなさい。」

そう言われたものです。みなさんも、そんな風に言われたのではありませんか?


あれは、小学校の3〜4年くらいだったと思います。

一人遊びが好きだった私は、田んぼの畦道で四つ葉のクローバーを探していました。

1つ見つかると、その近くには四つ葉がある確率が高いことを、私は体験的に知っていました。

宝探しでもするかのように、四つ葉探しに熱中したのです。


四つ葉と三つ葉がくっついたような、七つ葉というのも見つけましたね。

五つ葉もけっこう見つかりますが、四つ葉の方が縁起が良いと考えて、葉を1つもぎ取ったりもしました。人工の四つ葉ですね。


そんなことをしながら、ふとこんなことを考えたのです。

「ぼくがこうしていることも、天の神様は見ているのかなあ?」

「ただ見ているだけじゃなくて、きっとぼくが何を考えているかもわかるんだろうなあ。」

「だとすると、ぼくが今、神様のことを考えていることも、わかっているんだろうなあ。」

「ひょっとしたら神様は、わかっているだけじゃなくて、ぼくがどう考えるかとか、何を言うかを決めているのかもしれない。」

「だとすると、ぼくが考えたり言ったりしていることも、実は神様が考えさせたり言わせたりしているのかも。」

「でもそうすると、今そう考えたことも、神様が言わせているの?」

「その言葉も、神様が言わせているの?」

だんだんとわけがわからなくなりました。 (^_^;)


この話の記憶はそこまでなのですが、神様が私を通じて考えを示し、言葉を発しているなんて突飛な考えは、誰から教わったものでもありません。

偶然に、ふと、そんなことを考えただけです。

でもなぜか、ずっと記憶に残っていました。


今になって考えると、案外突飛なことでもないかもしれない、と思います。

なぜなら、私たちは「ひとつのもの」だということは、私と神様とは一体だということですから。

そういう意味では、神様が言うのと私が言うのは、同じことだとも言えるのです。


こんなことを言うと、「神に対する冒涜(ぼうとく)だ!」とか「頭がおかしいんじゃないの?」と言われるかもしれません。

けれども、「ひとつのもの」という考えを受け入れるなら、論理的な帰結としてそうなるのです。

そして、「ひとつのもの」であるなら冒涜ということもないし、私だけが特別ということもないし、神様ではないものは何もないということになります。

これは本当に世界を変える福音だなあと、しみじみ思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:27 | Comment(0) | ├ 私の生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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