家には神棚と仏壇があって、お仏飯と水は、割とよく取り替えていたでしょうか。
私自身は頼まれればやりますが、自ら進んでやったことはありません。
強いて言えば、祖父のために般若心経を唱えたくらいです。
神棚はありましたが、柏手を打った記憶もないほどです。
正月に餅を供えたときくらいは、やったかもしれませんけど。
そんな家庭でしたが、自然と、天には神様がおられて私たちを見守っているのだ、という考えを持っていました。
それはやはり、両親や祖父母から、そういう話を聞かされて育ったからでしょう。
「1粒の米粒には、7人の神様が宿っておられる。だからご飯粒1つも残さないように食べなさい。」
そう言われたものです。みなさんも、そんな風に言われたのではありませんか?
あれは、小学校の3〜4年くらいだったと思います。
一人遊びが好きだった私は、田んぼの畦道で四つ葉のクローバーを探していました。
1つ見つかると、その近くには四つ葉がある確率が高いことを、私は体験的に知っていました。
宝探しでもするかのように、四つ葉探しに熱中したのです。
四つ葉と三つ葉がくっついたような、七つ葉というのも見つけましたね。
五つ葉もけっこう見つかりますが、四つ葉の方が縁起が良いと考えて、葉を1つもぎ取ったりもしました。人工の四つ葉ですね。
そんなことをしながら、ふとこんなことを考えたのです。
「ぼくがこうしていることも、天の神様は見ているのかなあ?」
「ただ見ているだけじゃなくて、きっとぼくが何を考えているかもわかるんだろうなあ。」
「だとすると、ぼくが今、神様のことを考えていることも、わかっているんだろうなあ。」
「ひょっとしたら神様は、わかっているだけじゃなくて、ぼくがどう考えるかとか、何を言うかを決めているのかもしれない。」
「だとすると、ぼくが考えたり言ったりしていることも、実は神様が考えさせたり言わせたりしているのかも。」
「でもそうすると、今そう考えたことも、神様が言わせているの?」
「その言葉も、神様が言わせているの?」
だんだんとわけがわからなくなりました。 (^_^;)
この話の記憶はそこまでなのですが、神様が私を通じて考えを示し、言葉を発しているなんて突飛な考えは、誰から教わったものでもありません。
偶然に、ふと、そんなことを考えただけです。
でもなぜか、ずっと記憶に残っていました。
今になって考えると、案外突飛なことでもないかもしれない、と思います。
なぜなら、私たちは「ひとつのもの」だということは、私と神様とは一体だということですから。
そういう意味では、神様が言うのと私が言うのは、同じことだとも言えるのです。
こんなことを言うと、「神に対する冒涜(ぼうとく)だ!」とか「頭がおかしいんじゃないの?」と言われるかもしれません。
けれども、「ひとつのもの」という考えを受け入れるなら、論理的な帰結としてそうなるのです。
そして、「ひとつのもの」であるなら冒涜ということもないし、私だけが特別ということもないし、神様ではないものは何もないということになります。
これは本当に世界を変える福音だなあと、しみじみ思うのです。
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