私には子どもはいません。
なので、子どもの躾け方を語る資格がないと、考える人もいるでしょう。
けれども、広島大学学校教育学部に進学したくらいですから、それなりに関心を持っています。
関心があれば、そういう情報が集まってくるものです。
まあその程度のものですが、私の考えを書きたいと思います。
子どもの教育と言えば、森信三氏を知らない人はいないでしょう。
「修身教授録」という著作があり、「全一学」を提唱された国民教育者の友という生き方をされた方です。
広島高等師範学校(広島大学教育学部の前身)を出られているので、そういう意味では広島大学の先輩にもなります。
その森信三氏が、「しつけの三原則」というものを提唱されています。
(一) 朝のあいさつをする子に。
それには先ず親の方からさそい水を出す。
(二) 「ハイ」とはっきり返事のできる子に。
それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
(三) 席を立ったら必ずイスを入れ、
ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。
躾けはこの3つで良いと言います。これさえできるようになれば、立派な大人になれると。
では、これを子どもに躾けるには、どうすれば良いのでしょうか?
上記にもありますが、大人が手本になることが重要ですよね。
山本五十六氏が作ったとされる人を動かす方法を示す歌がありますが、子どもの躾けにおいても有効でしょう。
「やって みせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、 人は動かじ。」
これは、マクドナルドがアルバイトのスタッフを教育するのにも使われた方法で、短期間で即戦力に仕立てるための効果的な教育法と言われています。
まず自分がやって見せ、どうやれば良いかを言葉で説明し、それを実際にさせてみて、どこが良いと評価してやること。
そうすることで、人はできるようになるのだと。
だから子どもの躾けでも、まず親が手本を示すことですね。
その上で、どうやるのかを教え、やらせてみて、上手くできたところを褒めてやる。
「そうは言われても、やらなかったりすると腹が立つんだよね。」
そういう気持ちは、よーくわかります。
私も会社員として、部下の教育に携わってきましたから。
何度注意しても遅刻が改まらない部下には、本当にうんざりしましたよ。
そこで出てくるのが、「叱る」という方法です。
よく「叱るのは良いけど、怒るのは悪い。」と言う人がいます。
つまり「叱る」のは愛情があるからで、「怒る」のは不満をぶつけているだけだから、と言うのです。
私も、その通りだと思っていました。
「思っていました」と書いたのは、今はそう思っていないからです。
なぜか?
それは、相手に何かをさせなければならない、という必要性を捨てれば良いと気づいたからです。
相手は、それが子どもであっても自由な存在です。
それをどんな方法であれ、自分の意のままに動かす必要があるのでしょうか?
また意のままに動かそうという気持ちは、愛だと言えるでしょうか?
私は、それを愛だとは思わないのです。
必要性というのは、「そうでなければならない」という気持ちです。
一方で好みというのは、「そうだったらいいな」という気持ちです。
必要性は執着であり、依存です。不安を動機とした考えですから、愛とはかけ離れています。
好みは、単に自分らしさの表明です。「私は赤が好き」というのは、単に赤い色が自分にふさわしいと思っていることを表明しただけです。
相手が子どもであっても、自分がどう生きたいかは、子ども自身に選ばせれば良いと思うのです。
たとえば上記の「イスを入れる」とか「ハキモノをそろえる」というのも、親がそうするのが気持ちが良い(=好み)と思うなら、自分がやれば良いだけだと思うのです。
どうして子どもに無理やりさせなければならないのでしょうか?
親が楽しそうにやっていれば、子どもは言われなくてもやりたいと思うでしょう。だって、そうするのが楽しいのですから。
だから履物を揃える子どもに、「偉いねえ」という褒め言葉をかけるより、「気持ちがいいねえ」と自分の気持ちを言ってあげれば良いと思うのです。
もし子どもが親のことが大好きなら、親を喜ばせたいと思うでしょう。
時には親の意に従わないことがあっても、親をないがしろにはしないはずです。
だって親のことが大好きだし、大切にしたいし、愛しているのですから。
親もまた、子どもを所有物のように考えることをやめることです。
子どもは自由な1人の人間であって、親の所有物ではありません。
ですから、そもそも親の意のままにさせる必要性もないし、言うことを聞かなくても、叱る必要性もないと思うのです。
よく、子どもに勉強させようとして、こんなことを言う親がいます。
「私は子どもの頃に勉強しなかったから、大人になって、こんな仕事しかできずに苦労している。だから、今はすごく後悔しているんだ。お前には、こういう後悔をしてほしくない。だから勉強しろと口酸っぱく言うんだよ。」
これを、親の愛情だと錯覚している人がいますが、とんでもない誤りです。
後悔しているのは、親自身でしょう。だったら、その後悔(=反省)によって、自分の人生をより良いものに変えていけば良いだけです。
それをしないのは、単に責任を他に押し付けて、自分が変われないことの言い訳にしているだけでしょう。
勉強が足りないと思うなら、親が一所懸命に勉強したら良いのです。
そういう姿を見れば、子どもだって必死に勉強するかもしれません。
子どもを躾ける必要性はありません。
「ありがとう」や「こんにちは」が言えなくても、何も親が困ることはありません。
子どもが困ったら、そのときは子ども自身が言うようになるでしょう。
親が世間体を気にして恥ずかしいと思い、自分の所有物(=子ども)を立派に見せたいから、躾けようとしているだけではありませんか?
自分の動機をよくよく見つめてみること。それが大切だと思うのです。
2012年12月12日
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