会津には、什の掟(じゅうのおきて)と呼ばれるものがあります。
私はこのことを、大学のゼミ旅行で会津地方へ行き、藩校日新館を尋ねた時に教わりました。
内容は、以下のようなものです。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(会津藩校日新館より)
什(じゅう)というのは、同じ町に住む子どもを十人ぐらいのグループにしたもので、その集まりのことを什と呼ぶのだそうです。
その集まりの掟(おきて)、つまりルールなのです。
内容は、儒教が色濃く反映されていることがわかります。
特徴的なのは、最後の言葉です。
「ならぬことはならぬものです」
つまり、疑ったり否定したりすることは許されない、と言っています。
私も子どもの頃は、「へりくつを言うな!」とか、「口ごたえするな!」と怒られたものです。
大人が決めたこと、社会が決めたことに対して、不平や不満はもちろん、疑問を呈することすら悪いこととされたのでした。
日本の教育の荒廃を主張する人が多くいますが、その中には、昔のように有無を言わさず子どもに価値観を植え付けるべきだと言う人が少なからずいます。
子どもに自由に考えさせるのは、危険だという考えです。
私は、それこそ危険だと思います。
特定の価値観を植え付けるべきだと考える人は、この世には絶対的な善悪というものがあり、それは神聖で犯すべきものではないと考えているようです。
だから批判することは許されないし、疑問を呈することさえ許さないのでしょう。
けれども、この信念は間違っています。世の中に絶対的な善悪というものはありません。
この世にあるのは、自分の希望に照らして、有効かそうでないか、があるだけなのです。
今読んでいる「神との対話」シリーズの「新しき啓示」にも、そのことが書かれています。
「「正しい」とか「間違っている」ということはない。自分たちがどうありたいか、何をしたいか、何を所有したいかに照らして、有効なことと、有効でないこととがあるだけだ。」
(中略)
「「正しい」とか「間違っている」というのは、あなたがたの想像が生み出したものだ。あなたがたの判断であり、判断するなかで創り出したレッテルだ。判断のもとになる価値観で、個人としてまた社会として、何を望むかによって左右される。望むものが変われば、あなたがたの言う「正しい」こと、「間違っている」ことも変わる。」
(p.208-209)
このあと、変わらない価値観があると主張する著者のニールに対し、神は、それなら例をあげてみなさいと言います。
そしてニールが、殺人が悪いことだというのは、変わらない価値観だと主張します。
そこで神が言います。「ただし、戦争に勝とうと思うときは、べつだね。」
ニールは、少なくとも自分の国(アメリカ)は、他国に攻め込んだことはないし、自衛のための戦争しかしたことがないと言います。
だから、殺したくて殺したのではなく、守るために仕方なくやったのだと主張するのです。
そこで神はこう言います。
「あなたはたったいま、わたしの言葉を証明したということだよ。」
「自分から攻撃した(する)と考えている国も集団も地球上にはない、ということだ。戦争に突入する者はすべて、何かを守るためだと言う。」
(中略)
「ほかに方法がない、しかたがない、と言えば、欲しいものを手に入れるためにひとを殺してもだいじょうぶ。なにしろ、自分を守らなければならないのだから。」
(p.210-211)
たしかに、日本の大東亜戦争も太平洋戦争も、日本が世界の中で生き残るために始めた戦争でした。
しかしそう主張するのは日本だけであって、侵略された国々は、そうは考えません。
すべてが同じ理屈だということが、少し考えればわかるはずです。
中世の十字軍しかり、魔女狩りしかり、911テロしかり、死刑執行しかり。
もっとも重要だと思われる「汝殺すなかれ」という十戒の戒律でさえ、自分たちがどうありたいか、何をしたいか、何を所有したいかに照らして、有効かどうかで、守るべきか守らざるべきかを決めています。
これが私たちが言うところの倫理であり、善悪の価値観なのです。
つまり、決めているのは神ではなく、私たち自身。
ただそう言ってしまうと権威がなくなるから、神が与えたと言ってみたり、昔からの伝統だとか常識だとか言って、反論を防いでいるだけなのです。
もうそろそろ、善悪は自分が決めていることなのだと、認めてはどうでしょうか?
そうしないと、先に進めないからです。
不可侵のものだと考えている限り、見直すことができません。
そうして自分が決めた価値観を他人に適用しようとして、他人との間に摩擦を起こし続けることになるのです。
攻撃すれば、攻撃されるだけです。防御と主張しながら。
攻撃の手段は、昔はこん棒とかヤリくらいでしたが、それが弓矢になり、鉄砲になり、爆弾になり、原子爆弾にまで強力になりました。
そして今では、「ならず者国家」と呼ばれる国々だけでなく、犯罪組織でさえ簡単にそれを入手できる時代です。
こん棒なら1人を殺すだけで済みますが、原子爆弾になると何百万人を殺すことも可能です。
さらに細菌兵器などになったら...。
自分の価値観を他人に押しつけるという原始的な方法は、もう私たちにはふさわしくない。
なぜなら、そのやり方では世界が平和にならないこと、心に平安をもたらさないことを、私たちは感じてきているからです。
愛は、自由です。
相手の自由を喜ぶものです。
どうして自分の価値観を押しつける必要性があるのでしょうか?
今、大切なのは、今までのやり方では上手くいかないということを、認める勇気だと思うのです。
昨日、「新しき啓示」を読み終えました。
2003年に発売されたものですが、約410ページもあるんですね。
これで2,000円というのは、やはり安いなあと思ってしまいます。
続いて、「明日の神」を読み始めました。
これは2006年に発売され本です。
私が、この「神との対話」シリーズにある「すべてはひとつのもの」という考えを心から受け入れることができて、安心に包まれる体験をしたのは、たしかこの本を読んだあとの2007年だったと記憶しています。
2012年12月10日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。