さすがにもう12月ですから、日本ではお化けのシーズンが終わっています。
でも、タイは年中、ピー(お化け)の映画やドラマがありますね。
タイ人はみんな、ピーが大好き。(?)ではないかと思うくらい、手で隠して見えないようにしながらも、ピーの映画やドラマを楽しんでいます。
「振り向いた人の顔が..」とくれば、のっぺらぼうとか口裂け女が思い浮かぶでしょうか。
意外な顔が突然に現れるために、その驚きと怖さが相まって、パニック状態になります。
さて、それはお化けの話ですが、振り向いた人の顔を見て、「あっ、この人の顔は○○さんに似ている!」と感じたとこはありませんか?
おそらく、ほとんどの方がそういう経験があるでしょう。
そして、その○○さんが親しい人だったり、愛しい人だったりすると、関係のないその人に対しても、急に親近感を覚えたりするものです。
本当はまったくの別人なのに、自分の中では、特別な人のように感じる。
そう、人は自分がどう考えるかによって、他の人との間に特別な感情を持ち出すことが可能なのです。
だとしたら、そういう生き方を意識的にしてみませんか?
私は以前、祖母を叱りつけたことがありました。
それが心にひかかっていたのですが、花見に来た家族の中に足腰の弱ったお祖母さんがいて、その人を見た瞬間に祖母のことを思い出したのです。
その赤の他人のお祖母さんが、私の祖母のように思えて、思わず手を差し伸べたのです。
何の見返りも欲してはいませんでした。自分がよく思われたいなどという気持ちもありませんでした。
ただ、そのお祖母さんが亡くなった私の祖母のように思えて、助けたくてたまらなかったのです。
これは自然な感情です。
孟子では惻隠の情と言いますけれど、要は愛だと思うのです。
そのときの私の心には、祖母と私の温かい関係、「わたしたち」という思いしかなかったのです。
他の誰かと一体になった気持ち。それが「わたしたち」という思いです。
それはまた、自己の拡大とも言えます。
私は、「わたしたち」という関係を、自分と同様に感じていたのです。
ではもし、誰かが振り向いたとき、その顔が自分自身に見えたら、どうなるでしょうか?
おそらく世の中は一変するでしょう。
どうして他人から盗んだり、他人を傷つけたりできるのでしょうか?
それは、他人を他人だと考えているからです。
自分とは関係がないと考えているから、そういうことができるのです。
でも、その考え方は間違っています。私たちの本質は「ひとつのもの」なのですから。
そう見えないから、そう考えない。そして、そう考えないから、そう見えなくなるだけなのです。
でも、このことは多くの人が言ってきたし、聖書の中でイエスも言っています。
「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」
(マタイによる福音書・第25章40節,45節)
もしあなたが、本気で幸せになりたいなら、本気で愛になりたいのなら、自己を拡大させることです。
今自分が考えている小さな小さな自分ではなく、自分の親しい人、愛しい人も含めた自己に拡大させましょう。
その人たちを、自分ごとのように考えるのです。
それができたら、さらに拡大させましょう。
出会う人のすべてを、迫害する敵を、自分ごとのように考えるのです。
そうすれば、他人を非難したり、罰したりすることが、いかにバカな話かということがわかります。
自分に対してもしないことを、他人にしようとするのですから。
この世に他人という存在は実在しません。
他人のように見える自分という存在があるだけです。
なぜなら私たちは「ひとつのもの」だから。
だから愛することは難しいことではなく、自然なことなのです。
自分が自分を大切にするだけのこと。
ほんのちょっと見方を変えるだけで、あなたも本来の自分に帰ることができるのです。
2012年12月08日
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