「出掛けに下駄の鼻緒が切れるのは不吉だ。」
こんな話を耳にしたことはありませんか?
そしてあなたは、そういう話を信じますか?
多くの人が、完全ではないにしても、そんなことがあるかもしれないと信じています。
つまり、「出来事には何か意味がある」という考え方です。
このことについて、「神とひとつになること」の中で明確に語られていました。
「いずれにしても、ひとは人生で起こる出来事や経験の意味を知ろうとする。だが、じつはどんなものにもまったく意味はない。人生の出会いや経験に隠された本質的な真実などない。」
「誰が事実を隠すというのか?なぜ隠すのか?」
「もし、あなたがたに真実を見つけさせたいのなら、隠すより明らかにしておいたほうが効果的ではないか?もし、神に言いたいことがあるなら、あなたがたに謎解きをさせるより、はっきり言うほうがずっと簡単ではないか?(それに、ずっと親切ではないか?)」
「じつは、どんなものにも意味はない。あなたが与える意味以外には。」
(p.193)
このように明確に、出来事に隠された真実などないと言い切っています。
もし神という存在があって、私たちをはるかに超える強大な力を持っていて、私たちの人生に関わろうとしているとするなら、隠す必要がないと言うのです。
これは確かに合理的な考え方だと思います。
人は、怖れ(不安)から、強大な力を持つ横暴な神が無慈悲に暴れるので、それをなだめるためには、神が要求する通りのことをしなければならないと考えてきました。
生贄(いけにえ)という考えは、その最たるものです。
しかし、神は言葉ではっきりと「こうしてくれ」とは言わないから、人間が察する必要があるのだと考えました。
まるで昔気質の横暴な父親とそっくりな神様ですね。
そんなところから、人生に起こる出来事から未来を読み解き、起こってほしくない出来事を防ぐための方法が考えられてきたのでしょう。
しかし、「神との対話」シリーズでは、それを明確に否定します。
もし神が愛であるなら、全知全能であるなら、そんなことをする必要性がないと言うのです。
それに、それは愛とは真逆のことですから、愛の神ということと矛盾するとも。
人間が持つ怖れ(不安)が、勝手にそういう物語を作り上げただけなのです。
その不安こそが問題で、それが原因となって現実が創られている(引き寄せられている)のです。
本当は、起こる出来事に意味があるのではありません。
自分が意味を与えることによって、何かが起こるのです。
私たちは創造者(現実を引き寄せる者)なのですから。
そのことを、以下のように説明しています。
「人生(life:生命)が無意味だから、あなたがどんな意味でも決定することができる。その決定によって、あなたがたは人生のさまざまなもの、あらゆるものとの関係で自分を定義する。」
「じつはこれが、どんな存在であるかを自分で選ぶという経験の意味(means:手段)だ。」
(中略)
「だから、何かが起こったとき、どうしてかと問うのはやめなさい。どうして起こったかを、自分で選びなさい。どうして起こったかを自分で決めなさい。選んだり決定することができなければ、でっちあげなさい。どうせ、そうするのだから。」
「あなたがたは、ものごとをする理由や起こった原因を自分ででっちあげている。だが、ほとんどの場合は無意識にしている。」
「今度は、意識的に気持ちを(そして人生を)つくりあげなさい!」
(p.194)
たとえば、こんなことを言います。
「せっかくのデートなのに土砂降りの雨。ツイてないなあ。オレはいつもツイてない。何かに祟られているんだろうか?」
ほら、勝手にでっちあげてますよね、起こる出来事の理由を。
「あいつが悪いんだよ。あいつが飛び出して来なければ、ぶつかることはなかったんだからさ。どうして飛び出してくるようなやつを放っておくんだよ。」
本当にそうでしょうか?他の可能性はまったくないでしょうか?相手に原因の100%を押しつけることで、自分には何もする力がないと、責任を逃れようとしているだけではありませんか?
ほら、ここでも起こる出来事の理由をでっちあげています。
そういうでっちあげを、無意識にすることをやめませんか?
そもそも出来事に意味がないのだとしたら、意識的になりたい自分でいられるように、その意味をでっちあげたら良いのです。
思い出しましたか?そう、「少女パレアナ」に書かれていた「なんでも喜ぶゲーム」です。
もしあなたが「幸せな自分であること」が自分らしいと思うなら、そうであるための意味を出来事に与えれば良いのです。
クリスマスのプレゼントに松葉杖をもらったとき、普通ならこう考えるでしょう。
「なによ、これ!?私は足が悪くないんだから、こんなものもらったってしょうがないじゃない。まったくツイてないわ。本当は人形がほしかったのに。」
そう言って、ふてくされてしまうかもしれません。
でもパレアナは、この出来事に違う意味を与えます。
「私って、どうしてこんなにツイているんでしょう。だって、松葉杖を使わなくてもいい丈夫な足があるんですもの。この杖を使わなければならない人はかわいそうだわ。それに比べたら、私はとってもラッキー。そのことを気づかせてくれた素敵なプレゼントだったのね。」
どうです?これくらいでっちあげたら、たいしたものでしょう。
でもパレアナは、こうして自分がそうありたいと願う自分であることを選択したのです。そして、それを経験したのです。
人生は、すべて私たちが何ものであるかを経験する場です。
ものや人との関係性は、それを効果的に経験するために存在します。
ものすごく悪いやつがいなければ、そんな悪いやつでも許して愛するという至高の愛を経験することはできません。
不健康という出来事がなければ、健康がどれだけ素晴らしくて讃えるべきものかという経験ができません。
出来事そのものに意味があるのではなく、あなたが何を経験しようとするかによって、意味を与えるものなのです。
だから、もう出来事の意味を探るのはやめましょう。
不吉なことを経験したくないなら、不吉な出来事があるという考えを捨てることです。
読んでいた「神とひとつになること」は、昨日で読み終えました。
今日からは、次の「新しき啓示」を読んでいます。
これは2003年に出版された本で、私がタイに来てから買ったものです。
2001年9月11日の同時多発テロに象徴されるように、世界では宗教や民族の対立が激化しています。
どうすれば、人類の危機を救うことができるのか?
そういうテーマで書かれているようで、ワクワクしながら読んでいます。
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