人の本質は自由だと言います。
自由は、基本的人権として保証されているのだと。
しかし、それでは困ることが起こる。
そう感じた人によって、自由を制限することが正当化される理屈が作られました。
つまり、「公共の福祉に反しない限り」という制限です。
あるいは、「自由にも責任がある」という言葉です。
しかし、これはある意味で矛盾しています。
自由とは何の制限もないことですから、そこに少しでも制限をつけた瞬間に、自由ではなくなってしまいます。
「じゃあ、無政府状態が良いと言うの?弱肉強食の世界が良いとでも言うの?」
そう言いたくなりますよね。
私も、そう思っていました。
だから私も、人は自由だけれども、そのためには果たさなければならない責任があると考えていたのです。
しかし、その考え方によって私は、非常に大きなストレスを抱えたのです。
「こうあるべきだ」という考えで自分を縛り、他人を強制しようとして苦しみました。
何かおかしい。何か間違っている。
そう思いながらも、なかなか自分の考え方を捨てられずにいたのです。
「神との対話」シリーズを読んでいますが、そこには驚くべきことが書かれていました。
人の本質は完全な自由だと言うのです。
そして、それによって起こると思われる悪い事態に対しても、「神とひとつになること」の中で明確に書かれていました。
「人生の終わりにあなたは、魂にとって大切なのは何をしたかではなく、どんな人間だったかだとわかるだろう。そして、真の自分とは結局、魂であることを知るだろう。」
(中略)
「したいことだけをすればいいと言われたら、ほんとうに必要なことが何も実行されないのではないか、と不安になるからだ。」
「誰がゴミを運んでくれるんだろう?」
「まじめな話だよ。」
「誰もやりたがらないことを、誰がやるのか?」
「これが疑問であり、不安だ。ひとは放っておかれれば、人生を続けていくために必要なことをしないものだ、と人間は信じている。」
(p.162-163)
このように、具体的に書かれています。
これに対して、「この不安には根拠がない。」と言います。
実際、規則も規制もないコミュニティーで、必要なことをする人はたくさんいるからです。
たとえば家庭でもそうです。
食事を作るのが母親の勤めとされていたとしても、母親がしんどそうにしていたら、誰かが代わってやってあげるでしょう。
それは、そうすることが規則だからではなく、そうしてあげたいからです。
やらなければならないからではなく、やってあげたいからするのです。
「変わるのは何が行われるかではなくて、なぜ行われるかという理由だ。」
「何かをする「理由」が変わる。」
「しなければならないと言われたから「する」のではなくて、自分が選んだから、それが真の自分の表現だから「する」。」
「じつは、何かをする真の理由はこれしかない。だが、これによって「行為と存在」のパラダイムが逆転する。」
「人間がつくったパラダイムでは、ひとは何かをすることで、何者かになれる。」
「だが、新しいパラダイムでは、ひとは何者かであり、だから何かをする。」
「幸せだから、幸せな人間がすることをする。責任感があるから、責任感がある人間がすることをする。親切だから、親切な人間がすることをする。」
「そう、責任感のある人間になるために、責任を果たすのではない。親切になるために、親切なことをするのではない。そんなことをしたら、恨みが生じるだけだ(「あれだけのことをしてやったのに!」)。人間のパラダイムが逆転したのは、すべての行為には見返りが与えられると思っているためだ。」
(p.163-164)
法律で規制されていて、犯したら罰を与えられるから人を殺さないのでしょうか?
そういうやり方では殺人がなくならないことは、何千年もの人類の歴史が教えてくれています。
問われているのは常に、「私とは何者なのか?」ということだけです。
人生とは、それを選択するお膳立てなのです。
電車にのるとき、やたらと後ろから押してくる人がいる。
「うっとうしいなあ。押すなよ!」
そのとき、考えてみて欲しいのです。
こういうシチュエーション(状況)の中で、自分はどんな自分を選択するのだろう?
もしそれが「幸せな自分」を選択するのであれば、「幸せな自分」としての行為(言動)が生まれるはずです。
人はいつか、この世で生きることを終わらせます。
そのとき、何も所有するものはないし、何もすることはないことがわかります。
残るのは、ただ「どんな自分なのか」ということだけ。
誰から規制されるのでもなく、自由に、自分らしく、自分を選びたい。それが自己の創造なのですから。
2012年12月03日
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