私たちは常に、様々な情報にさらされています。
それは耳を通じて聞こえてくる聴覚の情報もあるし、目を通じて見えてくる視覚の情報もあります。
それこそ五感を通じて、常に様々な情報が入ってきています。
もしこれをいちいち全部処理していたら、きっと気が狂ってしまうでしょうね。
幸いなことに私たちは、入ってくる情報の一部しか処理しません。
たとえば雑踏の中で友人と会話するとき、会話に注意を向けていると、周りの音が聞こえなくなります。
いえ、本当は聞こえているのでしょうけど、私たちが聞かないようにしているのです。
同じように、見えているのに見ていないことがあります。
私などはしょっちゅうなのですが、目の前で手を振られて、初めてそこに知り合いがいたことに気づくことがあります。
私たちは、そこに注意を向けたとき、初めてその情報を意味あるものとして認識するのです。
そうであるために、私たちは、「こうであるはずだ」と思い込むと、そういう情報しか取り込まなくなります。
検察が犯罪を立証する証拠だけを取り上げ、否定する情報を無視してしまうのは、「こいつが犯人に違いない」と思い込むからです。
そのため、それを否定する証拠を軽視し、忘れてしまうのです。
「神との対話」シリーズを読んでいて、今は「神とひとつになること」を130ページまで読んだところです。
約250ページありますから、半分を過ぎました。
この中に、私たちのものの見方について、有益なことが書かれていました。引用しましょう。
この世はすべて幻想で、真実の姿は「ひとつのもの」だということが前提になります。
「幻想が現実的なのは、人びとがそれを幻想ではないと信じているからだ。」
(中略)
「真実とはあなたがたの信念、大多数の主張である。」
(中略)
「あなたがたは見たいものを見ているのだろうか?見えるはずだと期待するものが見えるのだろうか?そして、見えると期待しないものは見えないのか?」
「よいかな。答えはイエスだ。」
(中略)
「科学は、なにごとも観察者の影響を排除して観察することはできないという結論を出した。」
(中略)
「言い換えれば、あなたがたは幻想のなかから幻想を見ている。」
「したがって幻想に関するすべての結論は、幻想にもとづいている。だから、すべての結論は幻想である。」
(p.120-122)
このように、私たちは幻想の中に生きていて、それを幻想とは思わず、現実だと信じているから、幻想であることがわからないのだと言います。
では、そんな私たちが、どうすれば幻想を見抜くことができるのでしょうか?
「あなたがたはいま、幻想が現実的なのは、それが現実だからではなく、現実だという固い信念を自分がいだいているからだと知った。したがって、幻想に対する見方を変えるには、まず信念を変えることだ。」
(中略)
「幻想にぶつかったとき、それが幻想だと信じれば、どれほど現実的であろうとも幻想に見える。そうなれば、幻想を本来の目的に活用することができる。」
(p.123)
「これは自分が創り出した幻想にすぎない」と信じて見るなら、現実が実は幻想だということがわかると言います。
そして幻想だとわかって現実を見れば、現実に翻弄されるのではなく、自ら新たな現実を創り出すことで経験を変えることが可能になると。
そんな魔法のようなことができるのでしょうか?
私もまだ、よくわかりません。けれども、私の心は、これらの言葉に喜び、そうであるはずだと言っています。
だから私も、そういう生き方をしてみようと思うのです。
言葉として語るよりも、自分の生き方で示すこと。
子どもの教育と同じですね。「やれ」と言うのではなく、やってみせること。
それが私らしい生き方だと思うのです。
2012年11月30日
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