そう言えば同じメーカーのエレベーターで、以前にも同様な事故があり、業務上過失致死罪で起訴されてましたが、あの裁判はどうなったのでしょうか?
そんなことを気にしていたら、それに関するニュースがありました。
なんと驚くことに、あの事故からすでに6年半が経過したというのに、まだ裁判そのものが始まっていないと言うのです。
いったいどうして?
そう思いますよね。
理由は、公判前整理手続きで検察側と弁護側とが、鑑定合戦を繰り広げているからだとか。
裁判の迅速化を目指した制度ですが、そのために裁判を開けない事態になっているようです。
けれども、問題の本質はそうではないと思います。
検察は、ブレーキパッドの摩耗を点検で見逃したことを事故の原因とし、その担当者を起訴しました。
つまり、その担当者に罪を着せようとしているのです。
しかし、その担当者にも言い分があります。
そもそも事故を起こさせようとしていたわけではなく、業務として誠実に作業をしたという自負もあるでしょう。
それなのに「お前が悪い」と言われるのですから、たまったものじゃありません。
そこで、検察の言い分は不当だということを主張し、それを裏付けようとしているのです。
裁判は証拠に基づいて判断するものですが、必ずしもそれだけでは決まりません。
証拠がすべてを明らかにしないケースの方が多いため、争いが起こるのですから。
いかに被告が罪に問われないで済むかを、弁護側は必死になって立証しようとします。
これが裁判の実体です。
何か不毛な感じがしませんか?
問題点は、この裁判という制度が持つ不毛な争いにあると思うのです。
証拠を敢えて鑑定せずに隠匿することで、無実の被告に罪を着せた冤罪事件がいくつかあります。
検察の目的は真実を明らかにすることではなく、被告に罪を着せることだからです。
また、本当は犯人なのに、証拠が不十分なために罪を問われなかったケースもあります。
弁護側の目的は真実を明らかにすることではなく、被告の罪を軽減することだからです。
この不毛な争いのために、検察官、弁護士、裁判官など司法関係者の社会的コストが発生しています。
これが今の私たちの社会にある裁判という制度なのです。
裁判を傍聴した被害者側の関係者が、被疑者が反省していないことに不満を漏らすケースが多くあります。
そんなこと、当たり前ではありませんか?
今の裁判では、真実は明らかにならないのです。
それが目的ではなく、検察側と弁護側の争いの中で、落とし所を探っているだけなのですから。
被疑者の反省さえも、その材料として使われています。
罪を悔い、涙を流して謝罪すれば、罪が軽くなります。
一方、自分の正当性を主張して争えば、罪が重くなります。
「そんなバカな!?」と、私は叫びたくなりますよ。
自分が間違っていなかったと思うからそう主張しただけなのに、それで罪が重くなるなんて。
「オレの言うことに従え!従わないと罪を重くするぞ!」
そう脅しているのと、同じではありませんか?
だから検察側はこれを利用して、やってもいない罪を認めろと迫ります。
自分がやったと早く認めれば、罪が軽くなるのですから。
裁判で争うコストの増大を考えれば、自分の不名誉さえ甘受すれば丸く収まるのだと考えてしまうのも、当然ではありませんか。
どうしてそんなに、罪を着せる必要性があるのでしょう?
誰に罪があるかということよりも、何が起こったのかを解明する方が重要ではないのでしょうか?
そして、どうしたら二度とそういうことが起こらないようにできるかを、みんなで協力して考えることが重要ではないのでしょうか?
罪を着せられるという恐怖心によって犯罪を防ごうとするやり方は、上手く行っていません。
上手く行くはずがありません。
脅して不安がらせても、人は必死で防御するだけですから。
その人はなぜ、犯罪を犯さなければならなかったのか?
その本当の理由を明らかにしないでおいて、その原因を知ろうとしないで、結果だけ変えようとするのは無茶な話です。
それを知るために大切なのは、怖れ(不安)ではなく愛を与えることです。
そんなことは、「北風と太陽」というイソップ物語で、みんな知っていることです。
人の本質は愛です。
愛の対極の不安は、本質ではありません。
本質に生きない限り、私たちは幸せではいられないのです。
誰かに罪を着せることが、あなたにとって重要なのでしょうか?
それとも、間違いを正すことが重要なのでしょうか?
間違いを正すことが重要なら、誰かに罪悪感を押しつけるのではなく、許す(愛する)ことが大切なのです。
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