歎異抄(たんにしょう)という書物をご存知ですか?
歎異抄というのは、親鸞上人の言葉を忠実に示そうとした、弟子の唯円が書いたとされる書物です。
私は解説本しか読んだことはありませんが、そこには有名な悪人正機説というものが書かれています。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」
現代語訳は、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。」となります。
(歎異抄.comより)
これは他力本願という考え方です。
よく他人の力に頼ることを「他力本願」と言う人がいますが、それは使い方が誤っています。
本来は浄土真宗の仏教用語で、阿弥陀仏が衆生を救済する本願のはたらきのことを指すのだそうです。
細かいことはさておき、歎異抄の上記の一節に対しては、「善人が救われるならわかるが、どうして当然のように悪人が救われるのか?」と、疑問を持つ人が多いでしょう。
私もそうでした。
それについて歎異抄では、以下のように説明しています。
「なぜならば自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏のお約束の対象にはならないのです。」
つまり、自分で救われようとする気持ちがある間は、仏様がコントロールできないから、仏様にすべて委ねる気持ちにならないとダメだということです。
つまり悪人と言うのは、自分は煩悩にまみれた存在であることを認めている人のこと。
自力ではどうにもならないほどひどい人間だと思っている人のことを指すようです。
そういう人が、「自分ではどうにもならないから、仏様、助けてください!」と他力にすがるなら、仏様が救ってくださるというわけです。
似たようなことが、「神との対話」シリーズにも書かれています。
「神との友情・下」を読み終えたので、今は次の「神とひとつになること」を読んでいます。
これは2001年4月に発行された本ですから、シリーズの中では私がタイに来る前に、最後に読んだ本になりますね。
この本の「はじめに」という前書きに、こう書かれています。
「あなたも完全無欠だとは思わないが、欠点がある者は神の助けや直接の導きを受けられないとは考えない。それどころか欠点があるからこそ、神の助けを得られるのだと思う。」
(p.8)
私も、このブログで白状しているように、様々な愚かなことをしてきた人間です。
叩けばホコリがわんさか出てくるような人間ですから、人様の前で、清廉潔白のようなフリをすることはできません。
けれども、私もこの「神との対話」シリーズと出合うことで、生き方が変わったと思っています。
スタートは、「こんなのは嫌だ!」と思ったときです。
無意識に、「これは私ではない!」と思い、「本当の私はもっと○○な存在のはずだ。」と考えたのでしょう。
それが宇宙に対する「私という存在」の宣言になりました。
だから、「神との対話」シリーズをはじめとして、多くの有益なインスピレーションを与えてれた書籍や映画などと出合えたのです。
もちろんそれ以上に、私が出会った多くの人は、私に様々なことを気づかせてくれました。
つまり、最初は「これは本来の自分じゃない」と気づくことです。
本来の自分が善だとすれば、本来の自分じゃない自分とは悪ですよね。
すなわち自分は悪人だと気づくことが、生き方を変える始まりとなったのです。
おそらくあなたも、そうではありませんか?
そうでなかったら、このブログを読むこともなかったでしょう。
「こんなのは嫌だ。これは私が望む私じゃない!」
そういう思いを持ったから、ここへ来たのではありませんか?
あなたにも、多くの気づきがありますように。
私の書いたブログが、あなたへの贈り物となれば良いと思っています。
2012年11月27日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。