私は、私の考え方をブログやメルマガで発信していますが、その根本にある考え方についてです。
それは、私たちは「ひとつのもの」だ、という考え方です。
このことは、ブログの記事「般若心経の意味がわかった」でも書きました。
この考え方も、私のバイブルだと思っている「神との対話」にあったものです。
その本を読む中で、「本当にこの意味がわかった」と感じたことがありました。
それは、「神との対話B」のp.171以降を読んでいたときです。
そのことについて、本から引用しながらお話しましょう。
第7章(p.160から)では、輪廻転生があるかどうかについて、著者・ニールと神との会話が続いています。
動物にも魂が宿るかという質問に、神は動物の目を見ればわかると、間接的に答えます。
ただし、誰かの生まれ変わりが自分の飼っているペットということはない、とも言います。
なぜなら魂の望みは、自分自身のさらに高い側面を経験することで、そのためには低位の存在(動物など)に戻ることは意味がないからと。
また魂は、さらに進化するために自ら人間に戻り、何度も何百回も人生をやり直すと言います。
そこで著者のニールがこういう質問をします。
「それじゃ、毎日、システムに「新しい魂」が参加して、低位の生命のかたちをとるんですね。」
これに対して神はこう答えます。
「いや。すべての魂は、いっぺんに創られている。すべてがいま、ここにある。」
時空にとらわれて生活している私たちは、どうしてもその制限の中で考えてしまいます。
ですから、生まれたばかりの魂が動物に宿り、次の生では人間にと、時系列で考えてしまうのです。
でもそれでは、本質的な世界では時空は存在せず、「いま」「ここ」しかないことと矛盾します。
それでニールは混乱し、こう言います。
「すると、わからなくなるんですよ。宇宙の時空のつながりのなかで、「わたし」のひとつが「死に」、そしてべつの人間として戻ったとしたら・・・すると・・・どれがわたしなんですか?いっぺんに二人の人間として存在することになりますよね。それを永遠にくり返したとすれば(だって、そうおっしゃるんでしょう)、わたしはいっぺんに何百人もの人間になってしまう!」
それに対して神は、「そうだね。」とあっさり答えます。
そのあとしばらく会話が続きますが、ニールはどうしても自分の立場でしか考えることができません。
そこで神はこう言います。
「混乱するのは、まだ、わたしたちがひとりではなく複数だと思っているからだよ。」
さらにこう続けます。
「ここには、わたしたちはひとりしかいない。これまでも、ひとりしかいたことがない。そこに、気づいたんじゃなかったのかな?」
ここまで読んだとき、私は背筋がゾクっとしました。
たしかに、私たちは「ひとつのもの」だと、これまでにも書かれていました。
それを分割することで、この世にたくさんの魂が生まれたのだと。
それは理解していましたが、本質的に理解していなかったのです。
私の理解は、せいぜい「私たちは兄弟姉妹」ではなく、「私たちはひとつのものの一部だ」ということだったのです。
私が右手なら、他の人は左手。そういう認識だったのです。
けれどもここで、神は驚くことを言っています。
それは、「存在するのはひとりだ」ということです。
つまり、あなたは私であり、私はあなただということです。
私は、「分割した」という言葉から、物理的に2つに分けたというイメージを持っていました。
つまり「ひとつのもの」だった神を2つに分割して、「ふたつのもの」にしたイメージです。
だから、私たちは「ひとつのもの」の一部だという考えになったのです。
でもそれでは、他の人は「ひとつのもの」の別の一部だということになり、私とは別のものになってしまいます。
時空が存在する中での分割では、どうしても別の部分が存在していて、それを単に切り離したイメージになります。
「神との対話B」のこの部分を読んだとき、私の中にスーッと「ひとつのもの」のイメージが入ってきました。
時空のない世界での分割というのは、まさに文字通りに時空を使った分割だったのです。
時空を創ることによって、私たちは他人を、自分とは別のもの(=他人)として見ることができたのです。
したがって本質の世界で時空が存在しない状態になれば、それは「ひとつのもの(=ひとり)」になるしかないではありませんか。
それまでにも、「他人を自分のことのように考えよう」という考え方は知っていました。
しかし、どんなに頑張っても、他人は他人にしか見えなかったのです。
絶対に自分と同じには思えなかったのです。
けれども、私たちが「ひとつのもの」だとすれば、それが可能になります。
他人とは、別の人生での経験を選んだ私自身だから。
この世には、たったひとりしか存在していない。
それは、あなたであり、私であり、私たちなのです。
そのことがわかったとき、私は初めて、他人を本当に愛せると思いました。
だって、その人は「他人」ではなく、「私」自身だからです。
それがどんな人であったとしても、それは「私」であることを忘れた「私」自身です。
どうして愛せないことがあるでしょうか?
愛さないなんて不可能です。
だって、私なのですから。
これで、すべてのことが説明できます。
どうして他人のためにすることが、自分のためになるのか?
どうして自分を愛さないと、他人を愛せないのか?
簡単でしょう。
「他人」などという存在は存在しないからです。
存在しているのは、すべて「私」という存在だからです。
私は、私のことを愛しています。
だから、あなたのことも愛するのです。
たったそれだけのことなのです。
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