2012年11月09日

すべてを白日のもとにさらす

「神との対話B」を読んでいますが、とても考えさせられることが書かれています。

それは、「見える化」についてです。


すべてを明らかにし、誰もがそれを知ることができるようにすることが、社会を公正なものにするためのもっとも有効な手段だと言うのです。

言われてみると、たしかにそうです。

たとえば、ある商品の原価がいくらで、それにどれだけの利益を乗せているのかが消費者にわかってしまうと、誠実な商売をしていない企業の商品は敬遠されるかもしれません。

給料も、誰にいくら払っているかがわかれば、仕事の対価としてふさわしいかどうか、みんなにバレてしまいます。


これは、現代でもある程度は実行されていることです。

たとえば政治家の資産公開などもそうですよね。何のためにやっているかというと、特権を利用した不正な蓄財をしていないかどうかを監視するためです。

上場企業の役員報酬も、同様に公開されています。

これをさらに進めることが、社会を公正なものにするのに役立つというのです。


行政の情報公開も、このために役立ちます。

ウィキリークスに対して大衆が賛同するのは、特権のある人が不正なことをしていると思っているからです。

そしてウィキリークスを潰すためにあの手この手を使っているところは、公開されてはまずいことがあるからです。

秘密を持たないと、何かを失ってしまうからです。


もちろんこれには、プライバシーを盾にした抵抗があるでしょう。

しかし、本当に明らかにされてはまずいことが、どれほどあるでしょうか?


明らかにされたくない、秘密のままにしておきたいと感じる理由の多くは、漠然とした不安だと思います。

それによって誰かから批判されたり、攻撃されたり、バカにされたりするかもしれない。

そういう不安があるために、明らかにすることができないのです。


私はIT業界で仕事をしているので、「どうして日本は共通番号制度を導入しないのだろう?」と、よく思います。

タイは、国民にIDカードの所持を義務付けており、その番号は一生変わることはありません。

タイでできることが、どうして日本ではできないのでしょうか?

これがないために、日本人のデータ管理は、とても大変なことをやっているのです。


SEの方ならすぐにわかると思いますが、日本人は、個人を特定できないのです。

名前も電話番号も住所も生年月日も、どれ1つ個人を特定できません。

車の免許証だって持ってない人もいるし、取り直せば番号が変わります。

そのため、日本のシステムで個人を特定するためには、名前、生年月日、電話番号、郵便番号、免許証番号などのたくさんのデータを使い、どれだけ同じものがあるかで推定するしかないのです。

年金問題で同一人物に複数の番号がふられていたという問題がありましたが、あれなどもまさに、個人を特定する方法がないから発生した問題なのです。

間違った人に名寄せされたというのも、同じ理由からです。

 

こういうことに関して驚いたことがあります。

日本のパスポートの番号は、更新すると変わることを知ってましたか?

タイのシステムでは、個人を特定するのに13桁のID番号を使うのですが、外国人はパスポート番号で管理します。

ところがそのパスポート番号が、更新によって変わってしまうのです。

何のために変える必要があるのか、不思議で仕方ありません。

このため、本来は不変のはずのID番号を変更できるようにしなければならないのです。

 

個人を特定できないということは、なりすましを防げないということです。

それが、あらゆる犯罪の温床になっています。

養子縁組を利用した戸籍ロンダリングによって、捜査の追求を逃れるという犯罪手法がありますが、それが可能なのも、個人を特定できない仕組みになっているためです。


そういった不利益が明確であるにも関わらず、多くの人は共通番号制度の導入に消極的です。

理由は、何かあった時に自分に不利益なことが起こるかもしれないという、あいまいで漠然とした不安です。

「具体的に何がありますか?」

そう質問しても、おそらく答えられないでしょう。

たとえば所得を把握される可能性があるとか、どこのクレジットカードを契約しているかバレる可能性があるとしても、仮にバレたとしたらどういう不利益があるのでしょう?

自分が不正なことをしようとしていなければ、堂々としていられるはずです。


それをさらに一歩進めて、最初から公開してしまったらどうなるでしょうか?

つまり、完全な見える化です。

そうなったら、最初から不正なことをしようという気持ちさえなくなるのではないでしょうか?

バレるかもしれないと、ビクビクする心配がなくなるのです。


ただこれは、急激に行うことは難しいと思います。

人々が、公開することに慣れる必要があるからです。

そういう意味で、ブログとかSNSというのは、有効なものだと思います。

特にFacebookは実名を原則としています。できるだけ顔写真を公開することも求められます。

そうやって自分自身を少しずつ公開することに慣れると、段々と隠していないことが快感になってきます。


素っ裸が恥ずかしいと感じるのも、これは自然なことではありません。

そういうように教育されてきたからです。また、自分に自信がなく、不安を抱えているからです。

人は本来、素っ裸であっても恥ずかしさを感じないものだと思います。

それが証拠に、ごく親しい人の間では、最初のうちは恥ずかしがっていても、慣れてくると恥ずかしくなくなるではありませんか。

それは相手が、自分を攻撃しないとわかっているからです。守る必要性がないため、不安を感じずにいられるからです。


人と人は、本来はそういうように、何の防御も必要がない関係なのだと思うのです。

なぜなら、私たちは本来、「ひとつのもの」だから。

私たちの本質は、愛だからです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:17 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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