昨日のニュースで、娘に酸をかけて殺害したというものがありました。
パキスタンでのできごとですが、16歳の少女が自宅の外で少年と話をしているのを見つけた両親が、それを怒って酸をかけたのだとか。
顔や腕など全身に大やけどを負い、頭部は骨が露出していたほど、ひどいものだったそうです。
パキスタンの人権団体によると、昨年だけで1000人もの女性が、こういう殺され方をしたそうです。
「名誉殺人」と呼ばれ、家族の名誉を汚したという理由で主に女性が殺されるのだとか。
なんだかとっても悲しい気分になります。
両親にとって可愛くないはずのない娘を、むごたらしく殺さなければならないほどの思いって、いったいどんなものだったのでしょうか。
そうまでして守らなければならないものなのでしょうか?
これを、遠いパキスタンだけの問題だと考えていてはいけないと思います。
それは私たちも、同じようなことをしているからです。
躾(しつけ)と称して体罰が行われることは、いまだに残る私たちの習慣です。
さすがに教育現場ではなくなってきたようですが、家庭内ではまだ残っています。
強者が弱者を支配する方法として、暴力や暴力をちらつかせた脅しという方法が使われています。
児童虐待とかDV(家庭内暴力)と呼ばれることもありますが、要は誰かを支配しようとしているのです。
そんなことまでして、いったい何を守ろうとしているのでしょう?
その守ろうとしているものに、そこまでの価値があるのでしょうか?
そのことを考えてみる必要があると思うのです。
またこのことは、暴力を使うかどうかの問題ではありません。
暴言とか脅し、非難中傷など、相手を屈服させようとするあらゆる行為は同じ問題をはらんでいます。
さらに言うなら、強制的に相手に何かをさせようとする思いそのものが、この問題の根底にあるのです。
誰かに何かをさせなければならないとか、何かをさせてはならないという必要性が、本当にあるのでしょうか?
もしそれがあると言うなら、それは人の自由を否定する考え方です。
おそらく多くの人は、「自由は尊重するけど、ルールを守った上での自由だ。」というように考えているでしょう。
私も、すぐさまその考え方を否定するものではありません。
ただ、その「ルール」というものを、よくよく考えてみる必要があると思うのです。
多くの人は、そのルールの中に、「常識」だとか「社会の慣習」、さらに「マナー」などというものを含めます。
それに反した人に対して、容赦のない懲罰を与えようとします。
たとえば先日も、学校内でのいじめによって自殺する事件があったとき、加害者とされる少年やその親の写真や名前を公開する人々が現れました。
「あれはイジメじゃない。犯罪だよ。」
そう言って、マスコミがやらないから自分がやるのだと、自己正当化していました。
私はそのことを、良いとも悪いとも言いません。私にとって良いか悪いかということは、他の人たちにとってどうかということと、関係がないからです。
それにおそらく、そういうことをした人にとって、その行為は正しいものだったに違いないのです。
けれども、やったことは娘に酸をかけて殺害したパキスタンの両親と同じことだと思うのです。
「娘は私たち家族の名誉を汚した。だから殺されて当然だし、それをやらなかったら私たちが社会から蔑まれるのよ。」
おそらく両親には、そんな言い分があったのだと思います。
けれども、考えてみてほしいのです。
そうすることは、本当に自分らしいことですか?心から楽しいと感じることですか?
人は誰も、自分の中に答を持っています。
自分の感情にしたがうなら、自分らしくないことはできないようになっているのです。
生きることが楽しめないでいるなら、それは自分が自分の感情に耳を貸さないからです。
逆に言えば、本当に幸せになりたいなら、人生を楽しく生きたいなら、自分の感情に耳を貸すことです。
楽しくない考え方や行動はしない。楽しくなるように考え方を変え、行動を変える。
それが幸せになる唯一の方法だし、自分らしく楽しく生きる方法だと思います。
いくら他人を変えようとしても、それは無理だし、その方法では生きることを楽しめません。
他人を変える必要性はないと気づくことで、初めて本当に自由になれるのですから。
2012年11月03日
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