私がまだ東京で暮らしていたころの話です。
年に1回くらいは、新幹線を利用して田舎に帰省していました。
だいたいお盆だとかGWなど、多くの人が移動するときになりますから、指定席を予約して電車に乗ります。
そのとき、たまたま近くに家族連れがいて、小さい子どもが大声をあげたり、ゲームをしてピッピと音を鳴らしていると、「うざいなあ!やめてくれよ。」と怒りを感じていました。
「子供連れ専用車両でも作って、そこに押し込めてくれたらいいのに。」
そんな風に思っていたのです。
ある日、友だちと一緒に飲みに行ったとき、その話をしました。
「こっちは静かに寝て行きたいと思っているのに、子どもがいるとうるさくてしょうがないよ。親が一緒にいるのに、ちっとも静かにさせようとしないんだから、いい迷惑だよ。そう思うでしょう?」
私は友だちの同意を得たくて、そう言ったのです。けれども友だちは、私の意に反することを答えました。
「オレはそこまでは思わないなあ。」
てっきり同意してくれるとばかり思っていた私は、その友だちに対して腹立たしい気持ちになったのです。
しかしその友だちは、続けてこう言いました。
「オレにも小さい子どもがいるから、子ども連れの大変さがわかるんだよ。なかなか言うことを聞いてくれないし。それに、自分の子どもはかわいいから、騒いでいても気にならないんだ。」
私は、それでも抵抗しました。
「自分の子どもはそうかもしれないけど、他人の子どもが騒いでいたら頭に来るでしょう?」
しかし友だちは、私に同意しませんでした。
「うん、たしかに他人の子どもなんだけど、そんなに嫌じゃないんだよなあ。」
そのときの話は、それで終わりました。私は、その友だちの気持ちが理解できなかったのです。
しかし今は、その友だちの考えがわかるような気がします。
なぜなら、考え方は人それぞれだとわかるからです。
私は、「こうあるべきだ」という自分の考え方を、普遍的なものだと信じていたのです。
いえ、その考え方にとらわれ、固執していたのです。執着し、依存していたのです。
ですから、それにしたがわない人を許せなかった。まるで自分が傷つけられたかのように怒り、助けを求めたのです。
でも実際に、私の友だちのように考える人もいます。
そういう人にとって、子どもが騒いでいることは、それほど気になることではないのです。
気にならないから怒りもしないし、それをやめさせる必要性も感じません。
私の友だちは、そういうことに関しては自由でいられたのです。
それに対して私は、自分の考えで自分を縛り付け、不自由な状態を強いていました。
違いは、どういう考え方をしていたか、ということだけです。
そうは言っても、出来事から完全に超越することは、なかなか難しいものがあります。
それについては以前にも書いたように、少しずつ必要性を減らしていく努力が大切です。
考え方を変えることで、必要性を感じなくてすむという事実を知っていれば、その努力を継続することができるでしょう。
そうして得られた自由の素晴らしさを感じたことがあれば、またそこに立ち戻りたいと思うでしょう。
だから、まず最初の一歩を踏み出してみてほしいのです。
人の本質は、完全な自由です。そしてあなたも、その素晴らしさを体験できるのです。
2012年11月02日
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