ここ数日は、主に「神との対話」 を読んでいます。
その中で、また「これはすごいなあ」と感動したことがありましたので、シェアしたいと思います。
それは人間関係の目的について書かれていた部分です。
線を引きながら読んだところ(p163〜p169)から、少し引用しますね。
(人間関係で幸せな関係を築く方法は、)自分が考え出した目的ではなく、本来の目的のために関係を活用することだ。
人間関係の(本来の)目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、つかまえておきたいかを決めることではない。
人間関係の目的はひとつしかない。(中略)ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
このように、本来の目的に合うように人間関係を活用することが重要だと言います。
そしてその本来の目的というのは、本当の自分になることだと。
これについて、さらに詳しく説明してあります。
ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは(個性のある実体として、他と区別しうる何者かとして)宇宙に存在できる。他がなければ、あなたも無だということを覚えておきなさい。
(私たちは)起こった出来事に左右されるだけの人間であることもできるし、出来事に対してどうありたいか、何をするかという決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶこともできる。
(だから)すべての関係をうれしいもの、特別なもの、自分を創りあげる経験としてとらえなさい。そして、いま、どうありたいかを選びなさい。
人間関係というとき、特に重要だと感じるのがパートナーとの関係です。
男女の関係を維持することは、離婚率が50%という現代、とても難しいことのように思われています。
これについては、以下のように説明しています。
「人間関係が失敗し、変化してしまうのは、最初にその関係を結んだ理由では関係を続けられなくなったときである」
ほとんどのひとは、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのではなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。
つまり、最初に関係を結んだ理由が間違っているため、関係を維持できなくなるということです。
具体的に説明していますが、引用すると散漫になるので、要点を以下のようにまとめました。
まず多くの人は、相手からの愛情を求めて相手を愛するという間違いを犯している、と言います。
つまり、関係を結ぶ理由は、相手の愛情が欲しいからであって、その取引材料として自分の愛情を提供しようとしている、ということです。
こういう人は、仮に他者から愛されても、それが本当に自分を愛したいからだとは信じません。
あまりに無条件に愛される(本来の愛はそういうものですが)と、「自分をあやつろうとしているのだ」と疑ったりします。
そして相手を信じられないから、「愛情を証明しろ」と迫ることになるのです。
私もそうでしたが、わざと嫌われるようなことをして、「それでも本当に愛してくれるの?」と相手を試すのです。
あるいは、ちょっとしたことで自分の思い通りにならないと、「ほら、やっぱり本当は愛してないからだろう!」と言って怒り、ひねくれるのです。
そのために相手は、自分とは違う(=自分らしくない)ふるまいを強要されることになります。
こうして仮に、やっと相手の愛情を信じることができたとしても、すぐさま今度は、その愛情がいつまで続くかと不安になります。
そこで相手の愛情をつなぎとめるために、本当の自分とは違うふるまいを自分に強いることになります。
相手に依存し、相手に気に入られる自分であろうとするのです。
アッシー君とかメッシー君と呼ばれる人種に私もなっていたことがありましたが、まさにこういう状態ですね。
このように間違った人間関係を結んでしまうことで、2人とも自分を失うことになってしまいます。
そして、より小さなものになってしまうため、魂はその状態に耐えられなくなるのです。
こうして、2人の人間関係は破綻し、失敗に終わるという筋書きです。
だから、正しい人間関係を結ぶことだと説明します。
人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思いこむ誤解だ。
しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。
人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会ーーそれどころか、唯一の機会ーーを与えてくれるからだ。
人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。
大事なのは、その(人間)関係の中であなたが何者であるかだけである。
(だから)最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。
自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。
人間関係においては、自己本位で良いと言います。良いどころか、むしろ積極的にそうすべきだと。
つまり、その状況をあるがままに受けとめ、その限定された環境の中で、どういう自分であるか(=どう考えるのか)を決めること。
その判断基準は、どういう自分でありたいと自分が思っているか、ということだけだと言うのです。
そういう自己創造のために人間関係はあるし、そのために活用すべきなのです。
もし人間関係がこういうものだとしたら、どうなるでしょうか?
少なくとも相手がどうあるべきだという気持ちはなくなりますよね。
究極は、相手を選ぶ必要性がなくなります。
このことについては、以下のように書いてあります。
ほんとうの自分を充分に経験するためなら、特別の相手を必要としない。
つまり、相手は誰でも良い、ということです。
もしそう思えたら、相手を嫌うということがあるでしょうか?相手に不満を言ったり、文句を言うことがあるでしょうか?
バリ島の大富豪、兄貴について書かれたクロイワ・ショウさんの本、「出稼げば大富豪」にとても心に残るエピソードがありました。
それは、クロイワ氏と兄貴がレストランで食事をしたとき、クロイワ氏の注文した料理だけがなかなか出て来なかったのです。
それに対して店の人にクレームを言ったところ、兄貴は自ら厨房に入り、その料理を作ってクロイワ氏に出したのです。
「どうや?この方がさわやかやろう?」
これを読んだ時、私は意味が理解できませんでした。
けれども、今ははっきりとその意味がわかります。
斎藤一人さんにも、そういうエピソードがあって、「変な人が書いた驚くほどツイてる話」の中に書かれていました。
お弟子さんの舛岡はなえさんが喫茶店をやってたとき、斉藤さんが来られたそうです。
そのとき舛岡さんは、斉藤さんの高価なカシミアのコートに、お汁粉をこぼしてしまったのだとか。
けれども斉藤さんは、「いいんだよ、そんなこと。それ、自分が頼んだんだから」と言って、クリーニング代も受け取らないばかりか、コーヒー代も支払ったのだそうです。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
金持ちだから、「そんなはした金はどうでもよい」と思ったからでしょうか?
私は違うと思います。今なら、そうではないと確信できます。
お二人とも、その出来事の中で最高の自分であろうとしたのです。
最高の自分とは何か?自分らしい自分とは何か?
常にそのことに意識をフォーカスさせていれば、出来事とか相手にとらわれずに済むと思うのです。
【実践内容の最新記事】