竹島問題があって、韓流に対する批判も強まっているようですね。
政治と文化は別物という意見もあれば、スポーツに政治を持ち込んだのは韓国だという意見も。
人それぞれ、いろいろな意見があって良いと思います。
それぞれの立場で言えば、その意見は正しいのですから。
私は島根県出身ということもあって、竹島の問題には関心があった方だと思います。
けれども、このブログは領土問題を提起する場ではないので、それに関する意見は控えます。
その上で韓流について言うと、「それが韓国のものかどうかに関わらず、良いものは良いと言いたい。」という意見です。
なのでこの時期にあえて、韓国の映画について書きます。
別にそれが観たかったのではなく、妻がそこにチャンネルを合わせたのです。
ケーブルテレビなので、いろいろな映画をやっていますから。
妻は映画が好きで、1日じゅうでも映画を観ていられる人です。
その映画はすでに観たものだったようですが、惹き込まれて最後まで観てしまいました。
簡単にあらすじを書きましょう。
1人のグレかけた青年が、目の見えない女性と出会って恋に落ちます。
女性と出会って生きる希望を見出した青年は、真面目にキックボクシングに取り組むようになりました。
ある日、女性は両親の墓に青年を案内し、そこで自分が失明した経緯を話します。
ビルから人が、燃えながら落ちてくる。
車を運転していた女性は、それを見ていて交差点に突っ込み、横から来た車に衝突されました。
その事故が原因で、女性は失明したのです。
その話を聞いた青年は驚きました。
その燃えながらビルから落ちた男性は、自分のおじさん(父親?)で、青年と諍い合ったことが原因で自殺しようとしたのです。
自分のせいで、愛する女性が失明していたと知った青年は、女性の目の手術のためにお金を工面しようとしてマフィアに近づきます。
タイで行われる殺し合いのショー。それに出て負けることを条件に、青年はお金をもらうのです。
女性を手術室に送り、「待っているから」と言って安心させながら、その足で青年はタイに飛んだのです。
身分を示すものをすべて捨て、名前も変えて、もう二度と女性の元には戻らない覚悟でした。
しかし、その八百長試合で青年は勝ってしまいました。死にきれなかったのです。
怒ったマフィアは、その青年を殺そうとして襲いました。
手術を終えた女性は、目が見えるようになりました。
しかし、青年からは手術結果の確認の電話が病院にあっただけで、一緒に住んでいた部屋からも姿を消してしまいました。
女性は青年を待ちながら、マッサージをやったり、小物の店を始めます。
ある日、病院でマッサージをした患者の身体が、待っている青年とそっくりなことに気づきました。
けれども、ベッドに貼ってある名前が違います。
それは九死に一生を得て戻ってきた青年だったのですが、女性は青年の顔を知らなかったのです。
青年は、ずっと黙ってました。話せば声で気づかれるからです。
「彼女が幸せならそれでいい。自分は二度と彼女の前に顔を出さないと決めたのだから。」
しばらくして青年は、彼女の店に行きます。
そこを出た時、突然犬が飛びついて来ました。
彼女と暮らし始めた時、青年が買い与えた犬です。犬は、青年のことを覚えていたのです。
けれども女性は、なぜ犬が急に飛び出して行ったのかわかりません。
青年は言葉を発することなく、その場を立ち去りました。
何かおかしいと思いながら、女性は自分の店に行きました。
そこで店員から、その青年のことを聞かされました。
自分との思い出の品を持って行った青年。
そのとき初めて、その青年こそが待ちわびていた彼だったと気づくのです。
走って青年を追いかけながら、女性は泣きじゃくります。
「どうして気が付かなかったのだろう?もっと早く気がついていたら、引き止められたのに。」
青年は、女性との思い出の場所へ行きました。
そこで、机に彫られた点字を読み、女性がずっと待っていたことを知るのです。
そのとき、背後で女性の声がしました。
そして2人は、やっと再会したのです。
ぜんぜん簡単じゃなかったですね。すみません。
けれども、1回観ただけでこれだけ覚えているって、すごいでしょう?
それだけ感動したのです。
女性のために、命を投げ出そうとした青年。
自分が失明させたのも同然だと思ったからでしょう。
だから、せめて女性の目を治してあげることが、自分にできる贖罪だと考えたのです。
けれども女性は、目が見えることよりも青年と一緒の生活を望んでいたのです。
失明の原因に男性が関わっていたことを、女性はあとになって知ります。
その燃えながらビルから落ちたおじさんが生きていて、その話を病院で聞いたのです。
会いたい。けれど、会ってはいけないと思う。
青年の苦しい心の中を思うと、それもまた辛いものがあります。
一方の女性も、待って待って、ずっと探していたのです。
青年とは恋人関係だけだったのに、目が治ってからは勝手に結婚していると周囲に話していました。
それなのに、目の前に現れた青年は、名乗らずに立ち去ろうとした。
「どうして?私はあなたを待っていたのに。何もいらない。あなたがいてくれたら、それだけでいい。」
「待ち焦がれたあなたがすぐ傍にいたのに、私はまったく気づかなかった。どうして気が付かなかったのよ。バカ!もっと早く気づいていたら、あなたを捕まえられたのに...。」
女性が男性を追いかける場面では、妻から大笑いされながらも私は泣いていました。
「おーよしよし、泣かなくても大丈夫よー。女性と青年は一緒になるからねー。」
そう妻から結末を聞かされながらも、やっぱり泣いていました。(^^ゞ
こみ上げてくる女性の感情と、完全にシンクロしてましたね。
おそらく私の中にも、そういう思いがあるのでしょう。
だから、その映画に刺激されるのです。
中には、何も感じない人もいるでしょう。
それはその人の中に、そういう思いがないからです。
それが良いとか悪いとかではなく、ただ単にそれだけのこと。
人は、自分の外に自分自身を見つけて感動するのです。
感動とは、そういうものなのです。
2012年09月08日
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