特に今は、大企業のサラリーマンだからと言って、けして安泰ではありません。
いつリストラされるかもわからないし、大企業だって突然、倒産してしまうことだってあるのです。
それに、いつ病気になってしまうかわからないし、交通事故や自然災害に合うかもしれません。
「そんな普通は起こらないよ。」
そう安心していられますか?本当に?
今夜寝たら、明日の朝、目覚めるかどうかも保証されてないのですよ。
そう脅して、不安がらせることが目的ではありません。
でも事実、何の保証もない世界に生きていることを、改めて考えてほしいのです。
保険があれば安心ですか?それですべてが解決しますか?
私は別に保険屋の回し者でもないし、逆に保険を否定する者でもありません。
保険ではどうにもならないことがあることも、また現実なのです。
確率が低ければ安心なのでしょうか?
「滅多に起きないから大丈夫。」
それなら、どの程度の確率なら不安なのでしょう?だって、事故で死ぬときは、確率など関係なく100%なのです。
そういう世の中に生きながらも、先日紹介した本のように「思いわずらうことなく愉しく生きよ」と私は言いたいです。
なぜなら、本当に思いわずらう必要などないからです。
聖書に、こんなことが書かれています。有名な文ですが、マタイによる福音書の第6章25-30節 を引用しましょう。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
この部分は、私も大好きなところです。
鳥や花は、何もしないのに食べることができるし、着飾ることができています。
人は、それらよりもはるかに勝ったもの。ならば、どうして食べることや着ることに心を煩わせる必要があるのでしょうか?
「そうは言ってもねえ。世の中、そんなに甘くないよ。」
そう言いたい気持ちはわかります。私もそうでしたし、今でもそうやって不安になることがあります。
けれども、それは幻想を見ているからと考えることも可能です。
人生というものが、実は「ひとつのもの」が自分自身を体験的に知るためのものであるとしたら...。
もしそうなら、聖書に書かれたことは、あながちウソとも言えないのです。
オーストラリアの原住民のアボリジニは、あの広大な砂漠を食料も持たずに横断するのだそうです。
必要な物は神が与えてくださる。
そう信じて、旅にでるのです。
そして不思議なことに、行く先々で食料となる動物が現れ、それを捕獲して命をつなぐことができるのだとか。
思い切って飛び込んでみれば、案外、人生はスムーズに行くものかもしれない。
仮にそうでなかったとして、何か失うものがあるでしょうか?
所詮、裸一貫で生まれてきたのです。
死ぬときは何も持って行けないし、死はいつ訪れるかわからないのです。
生きるためにあれが必要、これが必要という執着する考え方を捨てることが、すべてを得るための近道かもしれないと思うのです。
【実践内容の最新記事】