2012年08月22日

批判することは自分のためになりません

「他人を批判してはいけない」と、よく言われます。

どうしていけないのでしょうか?


批判した相手から恨まれるから?

もちろん、それもあるでしょう。

でも、それだけではないと思います。



アメリカ・インディアンの教えに、こういうものがあるそうです。

「その人のモカシンを履いて1マイル歩くまでは、その人のことを批判してはならない。」

モカシンというのは、一枚皮で作った靴のことです。

つまり、その人と同じ立場に立ってみるまでは、その人の事情がわからないのだから、安易に批判するなということです。


このようなことは日本でも言われています。

「盗人にも三分の理」(「五歩の理」とも言う)というような諺をご存知でしょう。

どんな人にもそうするだけの事情があるのだ、ということを表しています。


すなわち批判するというのは、自分の立場で考えているからできることなのです。

どれだけ「客観的に考えて」とか「常識的に」などと修飾しようとも、それは主観でしかありません。

たとえて言うなら、茶筒のような円筒を片側から見て、「これは長方形だ」と言う人を、「バカか!円に決っているじゃないか。」と批判するようなものなのです。

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この批判の愚かさがわかるのは、私たちが本当は円筒形という立体であることを知っているからです。

それを、二次元的に見て長方形だ円だと言うのは、間違いではないけれども部分的な見方だとわかるからです。

でも、もし私たちが二次元的な存在だったら、それがわかるでしょうか?

もし、三次元的な存在である私たちよりも上の次元の真実があったら...。


このように、長方形と円という、まったく違う意見がそれぞれ正しいということが、あり得ると思います。

だから、批判するということは愚かであり、滑稽なことだとも言えるのです。



また、別の説明もあります。

それは、批判すると、批判した対象が力を得て存在し続ける、ということがあるからです。

このことは「神との対話」 の中に書かれていたことですが、その後、「引き寄せの法則」 など多くの本でも語られていることを知りました。


現実というのは、私たちの思考によって創られています。

つまり、私たちが意識したこと、考えたことの結果として、形となって表れるのです。

そうだとしたら、結果である現実を批判するという行為は、どういう意味を持つでしょうか?


批判するというのは、強力な意識の集中です。強い念波を発することになります。

その思いは、当然、次の現実を創る原因となります。

つまり、批判すればするほど、その対象を存在させ続けることになるのです。


それは、本当にその人の望みでしょうか?

批判するのは、その存在を自分の視界から消したいからではありませんか?

だとしたら、批判することは無意味どころか、逆のことをしていることになります。

もし本当にそういう現実は嫌だと思うなら、むしろ批判などせずに無視するに限ります。



マザー・テレサは、あらゆる反対運動に参加しなかったと聞いています。

それはおそらく、マザーが上記のことをよく知っていたからでしょう。

批判すれば、恨まれるかもしれません。

批判するのは、相手のことをよく知らないからです。

批判することによって、あってほしくない現実を引き寄せます。


そして何より、批判することは「私はそれだけ小さな人間です」ということを、宇宙に対して宣言していることになります。

言葉というのは、「私は○○である。」という宣言であり、私たちは、そうやって宣言した通りの存在なのです。

神が創った自分という尊い存在を、そういうちっぽけなものにしてしまうことは自分らしくない。

そう、マザーは考えたのだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:48 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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