私は、島根県の田舎町に生まれました。
小学校は1学年1学級で、同級生は19人。
中学校も1学年2学級で、同級生は80人ほどという田舎です。
そんな中で、たいした不自由もなく育ったという記憶があります。
裕福ではないものの、それほど貧しくもない家庭です。
跡取り息子の長男として、7人家族の中で大事に育てられたのだと思います。
性格は温厚で内向的。
自分からでしゃばるようなことは好まず 、なるべく目立たないようにしていました。
ただ親の遺伝子が良かったため、小学校の頃から成績は良かった方です。
そのためか、学級委員にはよく選ばれました。
別にリーダーシップがあったからではありません。
友達から、面倒な仕事を押し付けられたという感じです。
【大学で一人暮らし】
高校を卒業すると、中学校の教員になることを夢見て、広島大学に入学しました。
中学生の頃に見ていたTVドラマ「金八先生」の影響が大きかったと思います。
生まれて初めての一人暮らしは、不安でいっぱいでした。
それでもなんとか暮らしていけるようになり、学友との交友も広がりました。
しかし、そんなときに落とし穴がありました。
それまでは親元で、良い子の部分を見せて生きるのが当たり前だったのですが、自由になることで、自分の中のそうでない面とも向き合うことになったのです。
それは、ある新興宗教との出合い から始まりました。
そしてジェットコースターのように一気に登りつめ、今度は急降下。深く悩みました。
「こんな人間が多感な中学生の先生になどなって良いのだろうか?」
この問いに、私はYESと言えませんでした。
落第を繰り返し、学校の授業にも出なくなります。
そのうち、ほとんどを下宿で寝て過ごすような生活になりました。
夕方になって起き出し、夜中にゲームセンターへ行って一人で遊ぶ。
後ろめたさもありましたが、刺激で心を麻痺させないと、生きていけなかったのです。
【人生のリセット】
ある日、やはりこのままではダメだと思いました。
「人生をリセットしよう。」
そう決めると、大学生活をやり直すための方法を探し始めたのです。
私が選んだのは、新しい大学に入り直し、親からの仕送りは無理なので、新聞奨学生になるというものでした。
学士入学という方法で、3年次に編入するという方法もありましたが、まったく新しい環境を求めました。
それで国士舘大学の政経学部に入学し、川崎市の読売新聞の販売所で、新聞奨学生 として生活することになったのです。
新聞奨学生というのは、単に朝夕刊を配達するだけではありません。
それだけでも体力的に大変ですが、さらに集金と勧誘があります。
集金は客が居るときに行かなければならないので、夜遅くになることもありました。
夜は11〜12時くらいに寝て、朝は2〜3時に起きて朝刊配達です。
仕事が終わって部屋に戻ると、私は着替えてすぐに大学へ行きました。
そこで寝てしまうと、大学へ行かなくなるからです。
夕方3〜4時には販売店へ行き、それから夕刊配達です。
そんな生活を4年間やりましたが、大変ではあったものの、充実した4年間でした。
【IT関連の会社で働く】
大学卒業後は、東京のIT関係の会社に就職 できました。
当時はまだ、プログラマー不足の時代です。
理系以外の学生が、たくさん就職していました。
その後、転職を2回ほどして、岡山の会社にJターン しました。
年齢も35歳くらいでしたから、あとは田舎の近くで、ときどき実家に戻る生活をしたいと思ったのです。
自分のような平凡な人間は、平凡な生活をして過ごすのが良いと、決め付けようとしてたのかもしれません。
ところがほどなく、東京へ転勤で戻ることになりました。
終の棲家にと思ってマンションを購入していましたが、住むことができたのは半年ほどでした。
そして数年を東京で過ごしました。
いつかはまた岡山に戻れると思いながら。
ところが今度は、タイへ行ってほしいと上司から言われました 。
それなりの経験があって、しかも異動させやすい独身だったことで、私に白羽の矢が当たったというわけです。
重要なことほど即断即決しなければならない。
それがその頃の私のモットーでした。
タイがどんなところかも知らなかったのですが、私はその場で了解したのです。
【タイで暮らす】
タイに赴任してから10年が過ぎました。
最初は、日本との文化の違いに悩みました。
「日本と同じようなことがどうしてできない?」
理屈通りに動かないことにイライラし、苦しんだのでした。
それでもタイは、日本と比べて自由でした。
何でもありなのがタイの良さ。アメージング・タイランド!
私も徐々に、タイの心地よさにハマり、逆に日本の世知辛さを考えることになりました。
あっという間の10年でしたが、思い出せばいろいろなことがありました。
日本の会社を退職し、タイの会社の所属になったというのは、とても大きな出来事でした。
日本の会社が、3年くらいで撤退することを決めたのです。
ですが、それまでに採用したタイ人スタッフや、関係を築いてきたお客様のことを思うと、簡単に「私は帰りますから、あとはよろしく。」とは言えませんでした。
私はタイの会社の役員となり、経営に携わることとなったのです。
また、タイ人の女性との恋愛関係もありました。
最終的には昨年、4年近く付き合った女性と結婚 しました。
50歳になってからの結婚 というのは、若いころのような高揚感はなく、どちらかと言うと淡々としていましたね。
【使命との出会い】
約半世紀を生きてきて、自分の人生を振り返ってみると、数々あった悩みや失敗で苦しんだことが、無駄ではなかったなという思いです。
思い通りになったことより、思い通りにならなかったことの方が、はるかに多かったと思います。
それでも、それらが無駄なことではなく、今の私にとってかけがえのないことだったと思うのです。
そう思える私になれたのは、道を示してくれた人や本など、多くの出会いがあったからだと思います。
少しずつ亀のような歩みでしたが、自分が変わってきたのだと思います。
そして5年ほど前、私は衝撃的な体験をしました。
それは、すべてが受け入れられたと感じるような、温かい感覚です。
理屈では十分にわかっていたことですが、やっと心から得心できた瞬間です。
仕事をしていたのですが、涙が止まりません。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と昔の人は言いましたが、私も同じ気持でした。
「ああ、もうこれで、いつ死んでもかまわない。」
心から安心して、そう思えたのです。
もし、私と同じような感覚を他の人にも味わってもらえるなら、きっとその人の人生も変るに違いない。
私は、そう思いました。
そのときから私は、それを伝えることが私の使命だと思うようになったのです。
未熟なために、なかなか上手く伝えられずに今日まで来ました。
その間にも、多くの人が悩み、苦しみ、中には自殺したり、自暴自棄になって犯罪に走った人もいるでしょう。
そう思うと、自分の力が足りないことを残念に思います。
でも、嘆いてばかりいるわけにもいきません。
私の力はわずかであっても、歩みを止めるわけには行きません。
なぜなら、そうすることが私の使命だと、私自身が決めたからです。
少しでも誰かの役に立つために、これからも情報を発信していきたいと思っています。
<2016年7月12日追記>
その後、諸事情からIT会社を退職する事になりました。そのあたりのことは、「リストラされました!」、「リストラされてわかったこと」、「奇跡が起こったのかもしれない」などで詳しく書いています。また、その時々の思いなどは、メルマガ「SJ通信」で書いています。
<2018年5月21日追記>
2018年2月末より、タイの田舎(イサン地方にあるサコンナコーン県)にある妻の実家で暮らすことになりました。
妻の実家の前に茅葺屋根の店を出し、食べ物などを売っています。
私はここで、レイキをやったり教えたり、日本語を教えたりして生活できればいいなと思っています。
とは言え、現実はそう簡単なことではありません。
ここまでもいろいろなことがありましたが、きっとこれからもまだいろいろあるでしょうね。(意味深)
こちらでの生活のことは、「タイの田舎・イサン地方暮らし」というカテゴリで記事を書いています。ぜひこちらも、お読みくださいね。
<2018年7月24日追記>
2018年7月より、またバンコクに戻ってきました。
タイの田舎暮らしは、わずか4ヶ月で終止符を打つことになりました。
その経緯は、「「かえる」になりました」、「バンコクに移住します!」、「バンコクに移住しました!」という記事に書いていますので、そちらをご覧ください。
このままバンコクで暮らすのかどうか、それも含めてまだ未定です。流されるままに身を委ねながら、生きていこうと思っています。
<2019年2月6日追記>
2019年2月より、また元の会社で働くことになりました。
その経緯は、「元の会社に再就職しました」という記事に書いていますので、そちらをご覧ください。
これにより、当面はバンコクで生活することになりました。
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