国と国との平和な関係とか、共産主義や資本主義(自由主義)と言ったイデオロギーに興味があったからです。
3年と4年のときは国際政治のゼミを履修し、卒業論文は世界国家樹立の可能性について書きました。
内容はお粗末なものでしたが、アメリカ合衆国の成立を手本にしたものです。
国家であった各州が共通の理念のもとに結集し、国を超える全体像(連邦国家)に一部の権限を移譲しました。
そうすることで最高の主権を持つ国家が、それ以上の存在を作って従う関係になったことを、世界国家のモデルにしたものです。
そのころから、どうすれば世界は平和になるのかを考えてきました。
その結論が、経済の交流を進めることだったのです。
経済交流を進めると、当然、人の交流も進みます。
日常的に外国の人と交流するようになれば、それまでの価値観がガラリと変わります。
たとえば今、竹島の問題などで、韓国が嫌いになったと言う日本人が増えていると報道されました。
その個々の人たちは、どれだけ韓国と、あるいは韓国の人と、交流があるでしょうか?
おそらく、ほとんどないと思われます。
だから、他人ごとになれるのです。だから簡単に嫌いだと言えるのです。
たとえば、あなたに大好きなお兄さんがいたとしましょう。
そのお兄さんは韓国人の女性と結婚して、今は韓国で暮らしています。
それでも簡単に、「韓国が嫌いです」と言えるでしょうか?
おそらく言えないでしょう。
交流することによって、相手の事情を慮ることもできるようになります。
どれだけ親交があるかによって、される行為に対しても、起こる感情が違ってきます。
ですから、交流を深めることが、国家の垣根を超えることになるのです。
その点で、経済交流というのは非常に有効です。
そもそも第二次世界大戦が始まったのも、経済的なものが主な理由でした。
ABCD包囲網でエネルギー(石油や石炭)の輸入が難しくなったため、日本は独自の道を作ろうとしたのです。
それが戦争につながって行きました。
その反省があるために日本は、一部の国や地域、一部の資源に頼らないエネルギー政策を進めてきたのです。
戦争を回避して、健全に日本が発展するための方策を考えたのです。
国にとって、経済的な発展というのは、国民の生命とか最低限度の文化的生活を保証するためにも、最重要なことなのです。
もしその経済が、諸外国と深く結びついていたら、どうでしょうか?
その国を相手に戦争をすることは、自分で自分の首を絞めることになります。
ですから、滅多なことで戦争ができなくなります。
しかし、どちらかがどちらかに頼る関係ではダメです。
相互に補完し合う関係である必要があります。
それは、互いに互いを裏切れない関係にするためです。
両国は、運命共同体になるのです。
こういう関係ができると、両国の発展のためには、さらに経済交流を推し進めることが有効になります。
つまり、人、物、金という資源が、自由に行き来できる度合いを増やそうとする力が働きます。
ビザなしで入国できるとか、関税を撤廃するなど、どんどん垣根が低くなるのです。
そしてついには、国境がなくなる日が来るかもしれません。
島根県の住民が鳥取県の住民と領土を争わないのは、それがどちらに所属していても、個人にとってはどうでも良いからです。
個人にとって、どちらの県で手続きしようとも、大差がないからです。
このくらいに国と国との間の垣根が低くなれば、領土問題もどうでも良い問題になるはずです。
もちろん、これがすぐにできるなどとは言いません。
けれど、私たちがそれを進めなければ、子孫はその恩恵を受けません。
「一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」
言志録にある、私が好きな言葉 です。
たとえわずか一歩であっても、半歩であっても、私たちが推し進めなければならないのではないでしょうか。
恨みや憎しみは、とりあえず横に置きましょう。
「もし愛ならどうする?」
その問に答えることで、自分の生き方が見えてくるでしょう。
なぜなら私たちの本質は、間違いなく愛なのですから。
【ブログの最新記事】