デール・カーネギーの「道は開ける」 は、ビジネス書のロングセラーとして有名です。
このタイトルは、聖書に書かれている「求めよ、さらば与えられれん」を連想させます。
「えー、また宗教の話かよ。」
まあ、そう言わずにお聞きください。
聖書というのは、いわば欧米人の教養のようなものです。
聖書とシェークスピアを知らなければ、教養がある社会人とはみなされない。
そんな風にも言われるのです。
日本人は、どちらかと言えば神道や仏教でしょうけど、形骸化していて、その教義を知って信仰している人は少ないと思います。
そういう日本の常識からすると、聖書の話はうさん臭く感じるかもしれません。
けれども、世界のビジネスマンの教養の一部と考えれば、有名な言葉くらいは知っておいて損はないと思うのです。
少し長いですけど、この聖書の部分を引用します。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 」
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
新約聖書のマタイによる福音書7章7-11節になります。
ここに書かれているのは、求める者には必ず与えられる、ということです。
神とか父という言葉を、天とか宇宙に置き換えてみてもいいです。
天や宇宙の本質が愛なら、私たちが良い者か悪い者かに関係なく、求められたものを与えると言っています。
つまりこれは、求めるという原因に対して与えるという結果が起こるという、宇宙の法則を言っているのです。
これは「引き寄せの法則」 と同じことですよね。
私たちの思いが原因となって、この世の現象(結果)が引き寄せられるのです。
ただ、ここで注意しておくことがあります。
それは、聖書を読んで気が付かれるように、実にクドく書かれています。
神は愛だから、人が望むものは何でも与えてくれる。
そういうことを言っているだけなのに、実にクドいと思いませんか?
私は、ここに語りたいことの本質が隠されている気がするのです。
つまり、こういうことです。
人が望むものなら、必ず与えてくれるのだということを信じさせたいがために、クドくなっているのです。
ということは、信じることが重要だということです。
もし、必ず与えられると信じられたら、どうなるでしょうか?
たとえば自動販売機にお金を入れて、買いたいジュースを選んでボタンを押します。
どんな気持ちですか?
当然、ジュースが手に入ると思ってますよね。
信じるとか信じないというレベルの話じゃなくて、わかりきっていることですよね。
ボタンを押せば、望みどおりのジュースが手に入ると知っているということです。
実はそれが、信じるという本当の意味なのです。
普段、私たちは、信じるという意味を間違えています。
単に期待することを、信じると言っているのです。
だから本当は疑っているのに、信じると言っては、そうならないときに裏切られたと言うのです。
必ず得られるとわかっていれば、必ず得られます。
必ず道が開けるとわかって臨めば、必ず道が開けます。
そういうことを、経験したことはありませんか?
私は何度もあります。
たとえば試験の時です。
漢文を読んで答える問題だったのですが、何が書かれているのかさっぱりわかりません。
けれども私は、慌てませんでした。必ずわかると思っていたのです。
それで他をやってから、またその問題に戻りました。
そして読む中で、「白居易」という文字を見つけました。
「白居易」とは「白楽天」のこと。そういえば、その話は授業に出ていました。
そう気がついた瞬間、それまでちんぷんかんぷんだった漢文が、実にスラスラと読めて意味がわかったのです。
もちろん、問題に答えることもできました。
このように、何か望みどおりの結果が得たいのなら、それは必ず得られると信じて行動することです。
信じるというのは、そうなると知っていること。
でもそのとき、不安とか怖れというものが出てくるかもしれません。
それが疑う気持ちになって、本当の意味で信じられなくなるのでしょう。
だから、不安を取り除くことが重要なのです。
仮にすぐに望んだ結果が得られなくても、最終的には必ず得られると思えるようになるために、不安を取り除いて安心することが大事なのです。
2012年08月12日
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