生命は、とても尊いものです。
おそらく、この言葉に反論する人はいないでしょう。
けれども、総論賛成、各論反対というのが世の常です。
具体的に言いましょう。
生命が尊いと言いながら、どうして戦争をするのでしょう?
いんやく・りお君は、その疑問をアメリカ大統領に問いたいと言います。
「われわれは平和のために戦争をする」という大統領に対して、「戦争したら平和じゃなくなるでしょ。」と言うのです。
※「自分をえらんで生まれてきたよ」 (p115)
殺人を起こさせまいとして殺人を行う。
それは、どちらかの生命が尊くて、どちらかの生命は尊くないと考えているからではないでしょうか?
死刑廃止を訴える世論があり、世界は死刑廃止に向かって動いています。
しかし日本では、裁判員裁判によって逆に死刑が増えているとか。
最近、いじめに関する報道が多いですが、中には加害者の実名などをブログに掲載し、私的に刑罰を加えようとする動きもあります。
いじめを憎んで加害者をいじめる。
もし、そのいじめによって加害者が自殺しても、それは自業自得だと言う。
自分がいじめの加害者になっていることも気づかずに。
私はこのことを、良いとか悪いとか言っているのではありません。
ただ、「生命は尊い」と、多くの人は口にするけれど、本気には考えていないという事実を指摘しているだけです。
本当は、「私の生命は尊い」のであり、「私が好きな人の生命は尊い」だけだと思うのです。
新約聖書のマタイによる福音書第5章46-47節には、以下のように書かれています。
「あなたがたは自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」
※新約聖書(インデックス)より
愛するということは、全てです。一部だけ愛するなどということはありません。条件付きの愛などというのは、その言葉からして矛盾しているのです。
あの生命は尊いと思うけれど、この生命は尊くない。もしそう考えるなら、それは生命を尊いとは思っていないのです。
そうやって別け隔てをする考え方を変えないから、世の中はいつまでたっても、今のようなままなのではありませんか?
平和を祈りながら戦争を繰返す。犯罪のない世を望みながら死刑を繰返す。いじめをなくしたいと思いながらいじめを繰返す。
それはすべて、本当の意味で愛さないからです。
本気で愛する覚悟を持とうとしないからです。
「すべてはひとつのもの」という本質を受け入れないからです。
2012年07月29日
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