昨今は、あちこちで「反省しろ」とか「まったく反省の色が見えない」などと、他人に反省を求める声が聞かれます。
こういうとき、「反省」という言葉を使いながらも、実は別の意図を持っているのではと感じることが多々あります。
それはどういうことかと言うと、「誠意のある謝罪」を求めていると思われるからです。
「それが本当に反省した、ということなんじゃないの?」
そう思われるかもしれませんね。
でも私は、「誠意のある謝罪」と「反省」とは別のものだと思うのです。
「反省」というのは、自分が関係する出来事を振り返り、間違ったところを洗い出して、次からは間違いをしないようにしようと決めることです。
謝罪するかどうかは、まったく関係ありません。
それに対して、一般的に「反省の色が見えない」などと言う時は、相手に謝罪を求めています。
しかもそれは、心からの謝罪でなくてはなりません。つまり、「誠意のある謝罪」をすることを「反省」と表現しているのです。
「誠意のある謝罪」と言えば聞こえがいいですが、要は「罪を認めろ」と言うことです。
「罪悪感を抱きなさい」と言うことです。
「私はとんでもないことをしました。どんなに詫びても取り返せないひどいことをしてしまいました。申し訳ありません。」
そう泣きながら詫びることを求めているのです。
「それのどこがいけないと言うの?だって悪いことをしたんでしょう?」
そう思われるとしたら、人のことがまだよくわかっていませんね。
「盗人にも三分の理」ということわざがあります。
戦争はいつだって互いに正義の戦争です。
誰もがみんな、「自分は正しい」と思って行動するのです。
あるいは、「仕方がないよ」と思って行動するのです。
だから一方的に悪と断罪されれば、反発してしまうのです。
それなのに、一方的に悪いということを認めろと迫っています。
だから迫られた方は、形だけ取り繕うことになります。それが透けて見えると、「誠意がない」ということにされてしまうのです。
そして、見た目が「誠意のある謝罪」に見えるかどうかが重要視され、本当に反省したかどうかが軽んじられます。
その結果、同じことが繰り返されるのです。
罪悪感というのは、自分には価値がないと認めることです。
そんなこと、普通は認められるはずがありません。
どんな極悪人だって、自分にも少しは正義があると思ってやっているのですから。
本当の意味で反省しないと、間違いを正すことはできません。
そのためには、罪悪感を抱くことや抱かせることは、百害あって一利なしだと思うのです。
2012年07月25日
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