2012年07月22日

違いがあるのに本当は同じものとはなーんだ?

人は、それぞれ個性があります。

持って生まれた遺伝子も違えば、育つ環境も異なります。

ですから、違っていて当たり前です。


「違いがある」ということは、「差がある」ということにもなります。

その差を比べるのが競争ということにもなるのでしょうけど、必ずある価値観において優劣が決まります。

そもそも優劣というのが、ある価値観におけるその要素の大きさを比較するという意味ですから。

差があるならば、必ず優劣があるというのは当然のことです。



幸せ実践塾−傷つきやすい、内気、自信がない、を幸せ体質に改善します。-影の比較

しかし、だからと言って「優れている方」が「劣っている方」よりも価値があるわけではありません。

ここを間違えてしまうから、「優れている方」は天狗になってしまったり、「劣っている方」は自己卑下してしまうことになるのです。



まず、先ほども言ったように、これは「ある価値観」における比較に過ぎません。

つまり、「別の価値観」で比較するなら、また別の評価があるということです。


たとえば、背が高い方が絶対に優れていると言えるでしょうか?

もちろん多くのスポーツでは、背が高いことが有利に働くことはあるでしょう。そういう意味では優れています。

しかし、背が低い方が優れていることもありますよね。

動物界を見るとよくわかりますが、哺乳類は最初のころはとても小さかったのです。

それは食糧事情から大きくなれなかったということもありますが、小さい方が身を隠すのに都合が良かったという面もあったのです。

背が小さい哺乳類は生き延びて繁栄しましたが、背が大きかった恐竜は死に絶えてしまったのです。



次に、どんな価値観で比較するにせよ、それは幻想の世界における比較だ、ということがあります。

この世は「すべてひとつのもの」なのです。

「ひとつのもの」から万物が生まれていますが、これは「ひとつのもの」が創造主で、万物が被造物という創造主とは別のものという意味ではありません。

万物はすべて、「ひとつのもの」の一部であり、また一側面なのです。

たとえば、「ひとつのもの」を実体とするなら、この世の万物は影のようなものです。

光のあて方次第で、影は様々な形になってしまいますが、その実態は同じものです。

その影が、背が高いとか低いとか言ったところで、そこにどんな意味があるのでしょう?


私たちの真実の姿が「ひとつのもの」という素晴らしいものなら、私たちの今の姿(仮の姿)がどうであれ、私たちの価値が損なわれるものではありません。

だから、真実の姿を見抜くことが大切なのです。

それをしない限り、影の背の高さを競うことで自分の価値を保証しようと、愚かな努力をすることになるのです。


影の価値を競って得た自信は、本物の自信ではありません。

本物の自信は、そういうものに根拠を置かない自信です。

真実の姿に絶対的な価値があると知ることで生まれる自信です。

その本物の自信を得ることができれば、何が起ころうともくじけることがありません。

違いは違いとして認め、他人の素晴らしさを賞賛し、希望に満ちて自分の人生をまっとうするでしょう。



あなたは、そういう人生を歩みたくありませんか?

もし歩みたいなら、真実の姿を知ることです。そして幻想の中にあって、真実の姿として生きることです。

あなたの本質は、絶対的に素晴らしいものです。

そのことを思い出してください。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:53 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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