人身事故を起こした こともあります。
(※責任の所在については明確ではありませんが。)
オートバイで後ろに姉を乗せ、隣の家の玄関に突っ込んで玄関を壊したこともありました。
2スト(ヤマハDT125)でトルクが弱かったので、少し吹かし気味でクラッチをつないだら、おそらくウイリーしてしまったのです。
私もわけが分からず、制御不能になって突っ込みました。
あのときは、後始末を全部親に任せてしまいました。本当に恥ずかしい限りです。
また、車に乗ってバックしようとして、他の車にぶつけたこともありました。
あわてて逃げようとしましたが追いかけられて、結局お詫びをすることに。
お金がない貧乏学生だったので、損害賠償請求されるのが怖かったのです。
それにしても逃げるとはひどいやつです。
バイクに乗っていて、前を走る車やバイクに追突したこともありました。
前の車が急ブレーキをかけたためです。
しかし、悪いのは後続車ですから、私が弁償することになりました。
そんな事故を数え上げてみると、おそらく10件以上あったと思います。
そして事故を起こした時に思うことは、いつも「これをなかったことにできないだろうか?」という考えでした。
だから、逃げられるものなら逃げたかったのです。
誰も見ていなければ、自分が責任を追求されなくて済む。そう考えたのです。
何がそんなに怖かったかと言うと、さっきも書いたように、まずはお金です。
わずか数万円だとしても、それが非常に惜しかったのです。
おそらく払おうとして払えない金額など、想定していなかったはず。
それでも、自分が自由に使えるお金が減ってしまうことが、とても大きなことのように思えたのです。
それともう一つは、私が悪いと責められることから逃げたかったのです。
私が悪いことをするということが、受け入れがたかったのです。
私は本当に完全主義者でした。
ですから、100%確実にできると思えなければ、何もやらなかったのです。
何もやらなければ、絶対に失敗はしませんから。
それくらい、失敗することや、間違ったことをすることが怖かったのです。
タイでは、バスが人身事故を起こすと、運転手が逃げるというのが相場になっています。
いや本当の話です。たいていは逃げます。
そういうものだとみんなも認識しているので、たまに逃げなかった運転手がいると、「運転手は逃げませんでした」と報道されます。
ネタじゃありませんよ。本当の話ですって。
そんな運転手に対して、私は親近感を覚えます。
もし私がタイで運転手をやっていたら、きっと同じことをしただろうなと。
もちろん今は違います。
と言っても、逃げるような状況が発生していないのでわかりませんけど、多分逃げないだろうと思います。
なぜなら、人生において起こることはすべて必然で、意味があるとわかっているからです。
事故を起こしたとすれば、それは起こす必要があったのです。
そして、それを体験することによって、自分の課題をクリアできるのです。
もしそういう状況が起きても、「どうするのが自分らしいことなのだろうか?」と、自分に問うようにしたいと思っています。
【├ 私の生い立ちの最新記事】