路上に屋台など店出ししている中に、鳥カゴを売っている人がいるのです。
よく見るとそのカゴには、小鳥が入っています。
「タイの人は、そんなに鳥を飼うのが好きなのだろうか?それとも、買った鳥を食べるの?まさか?」
そう不思議に思ってタイ人に尋ねると、あれは逃がしてやるのだと言うのです。
囚われの身になった哀れな鳥を逃がしてやることで、功徳を積むことができるのだと。
そう言えばお寺でも、行事として魚を川に放流するというのがあります。
あれなども、生き物を憐れむという意味なのでしょう。
しかし、憐れむパフォーマンスをするために、わざわざ捕まえているんですよね。
小鳥だって、捕まえる人がいるから、わざわざお金を出して買って、放してやらなければならない。
どこか変じゃないですか?
他にも、飼育している象に、餌としてサトウキビやバナナを与えるというのも功徳を積むことになるのだとか。
タイ語ではタンブン(※)と言いますが、お寺に寄進することも、お参りに行くこともタンブンです。
そうやって徳を積んで、今世、あるいは来世で良いことが起こりますように、と願うのです。
「仏教って、こんなにご利益宗教だったっけ?」
正直に言って、そんな気持ちを持ちました。
しかし、これもまた考えようだなあと思うのです。
それは前の「会社のトイレが汚されたらどう思いますか?」という記事を書いていて、「ひょっとしたら同じことじゃないか」と感じたからです。
私はトイレを汚した人に対して、わざわざ「身を汚してまで他者に貢献する行為」だと考えることもできると書きました。
それなら同じ理屈で、他人に徳を積ませるために鳥や魚を捕まえる人がいても良いわけです。
バカバカしいと言えばそれまでですが、そうやって徳を積みたいというニーズがある以上、それを助ける商売があっても不思議ではないのでしょう。
こういうのを見て、「バカバカしい」と不機嫌になるのも1つの考え方です。
「なるほど面白い」と楽しむように考えることも可能です。
斎藤一人さんが言われるように、どっちが正しいかではなく、楽しいかどうかで判断するようにすれば、人生は楽しいことだらけかもしれませんね。
※タンブン:タイ語ではทำบุญと書きます。ทำ(タム)は行うこと、บุญ(ブン)は功徳とか福運という意味です。
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