そこで書いた私の引越しについて、詳細を書いてきました。
1回目:「生きるためにはカラを破るしかなかったのです」
2回目:「人生をリセットする決意が私を変えました」
3回目:「新居を東武東上線坂戸駅近くに決めました」 ,
「関越道を暴走しました」
4回目:「中国古典の影響で理想的な人物を目指していました
6回目はタイへ来た時のことですから、すでに「潜在意識にインプットしたことが実現しました」 という記事で経緯を書きました。
今回は、5回目の引越しについて書きます。
5.転職して岡山市へ
友人の社長の会社に入ってしばらくすると、バブル崩壊の影響が出てきました。
だんだんと仕事がなくなり、IT業界は構造不況産業に指定されるまでになったのです。
社員の半数以上に仕事がない状態になった時、私は国の制度を利用してお金をもらうことを社長に勧めました。
社員教育の方針を提示すれば、仕事がない社員のたしか6割くらいの給料を国が出してくれたのです。
背に腹は代えられないと言いますか、また儲かるようになったら、税金という形で返せば良いのだからと説得したのです。
それでもだんだんと先細りになる中、社長からあることを依頼されました。
それは、会社の資産を食い潰しなかがら何とか1年もたせるプランを考えてくれ、というものでした。
12月のボーナス前でしたから、私はボーナスを予定通りに支給し、あとは緊縮経営するプランを提案したのです。
それに対して社長は、家族から資本金を出してもらっているから、最初にボーナスを全額出すということはできないと言います。
私は、もうすでにボーナスを期待している社員もいるだろうから、それを出した上で協力を求めないと、社員の心が離れてしまうと主張したのです。
どちらが正解ということはないと思いますが、会社のことよりも自分がもらうことを考えていると、社長からは思われたようです。
前の会社を辞めた時も、私はワンマン社長に対する私の不満というより、虐げられて何も言えない他の社員の代弁者として、社長に直訴したつもりでした。
今回もまた、私自身がもらえるお金のことではなく、他の社員が不満を持たないようにと、代弁したつもりだったのです。
ある古参の社員が、経営状況を察して、「私はボーナスは要らないから、会社のために使って。」と言ったそうです。
そのことを例にあげて社長から、「赤木さんは会社のことを少しも考えていない。」と批判されました。
そのとき私は、「この会社はもう、私を必要としていないのだな。」と感じたのです。
それ以降、経営に関して社長から意見を求められることはなくなりました。私もまた、一社員として働くことにしたのです。
その後、派遣の単価は下がったものの、仕事量は少しずつ増えてきました。
何とか会社を潰さずに済みそうだ。そう思えてきたころ、私は転職する意向を社長に伝えました。
精神的に疲れたこともあったし、元々田舎かそこに近いところで暮らしたい気持ちもあったので、広島か岡山に絞って転職先を探しました。
ハローワークに登録したところ、岡山の会社が私を見つけてくれました。
Jターンが決まり、岡山に引っ越すことが決まったのです。
転職時期を聞かれて、私は11月末を選びました。
友人の会社が私に、ボーナスを支給するかどうかを悩まなくて済むように、ボーナス前に退社したかったからです。
岡山へは、引越し業者を使って引越しました。
岡山駅にほど近い桑田町にあるアパートです。2LDKの広い部屋でしたが、安かったのです。
岡山は、それまであまり馴染みがありませんでした。
ただ、姉は岡山県高梁市の短大に通ったことがあったし、祖父も岡山県神代町の出身です。
そういう意味でまったく知らないわけでもないのですが、初めて暮らす土地として、なぜか不安を感じていました。
同じ汎用機の仕事でしたが、I社製からF社製のマシンに変わることも、少し不安でした。
それに、田舎特有の暮らしづらさを直感していたからかもしれません。
そんなとき、姉が電話をくれました。
「引越しの手伝いに行ってあげようか?」
わざわざ大阪から出てきてくれると言うのです。私は1人でも大丈夫だと言いながら、結局、姉の申し出を受けました。
知り合いが1人もいない土地に住むことは、初めての経験ではありません。
それなのに、なぜか不安だったのでしょう。
姉が姿を見せてくれた時、私は心からホッとしたのです。
姉に力をもらった私は、次の日からまた、朝5時に起きて掃除をする生活を始めました。
新聞奨学生として生活を始めた日や、埼玉県坂戸市で社会人としてスタートを切った日を、思い出そうとしたのです。
「初心忘るべからず」
朝早く起き、掃除をし、明けゆく空に祈りながら、新たな生活でぶつかる壁に、正面から立ち向かおうとしたのです。
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