私が小学生の頃、女の子の間で、パチンと留められる髪留めが流行りました。
その頃はまだ、金属の銀色のものだけでしたが、すぐ後に青やピンクの色をつけたもの、飾りをつけたものなどが出てきました。
しかしその髪留めは、学校で禁止されました。「華美だから」という理由で。
どう思います?「ウソでしょう?」と、信じられない気持ちの方が多いのではないでしょうか?
では、もっと記憶に新しいところで。私が高校のころ、髪を染めるのは不良だと言われました。
茶髪という言葉は、不良を見下す意味も併せ持っていたのです。
同じくピアスの穴を耳に開けることは、親からもらった身体を傷つける行為で、刺青と同じくらいに非人道的なものとして非難されました。
それが今はどうでしょう。髪を染めることは、おしゃれの1つとして市民権を得ています。
刺青はまだですが、ピアスくらいで驚く人はいません。耳どころか鼻、ヘソ、まぶた、舌など、ありとあらゆる所に穴を空けています。
市民権が得られているのは、まだ耳くらいかもしれませんけど。
学校の規則で禁止されるかどうかは別として、以前は非常識と思われていたことが、今はファッションとして常識になっています。
因みにタイなど東南アジアでは、ヤクザでなくても普通に刺青を入れます。刺青をすることは、痛さに耐えた強さの象徴ではないのです。
ファッションだったり、魔除けという意味もあります。
日本では、刺青をした公務員を批判したり、刺青をしていたら公衆浴場やプールに入れさせないなど、同じ人間として扱わないことを是とする風潮がありますが、世界的にはナンセンスと言わざるを得ないでしょう。
このように、常識というものは、ごく限られた社会の、そのときの雰囲気に過ぎません。
日本が悪いとか、遅れているとか、そういう問題ではないのです。
世界のどこにも常識と思い込んでいる考え方はあります。そしてそれらもまた、移ろうものなのです。
ちょうど天気の低気圧のようなものです。
気圧などというものは、仕切られたものではありませんから、周辺との接触によって変化しますし、また移動するものです。
要は人の心が決めることですから、変化することが当たり前なのです。
こういう常識と呼ばれるものは、ひとつの価値観に過ぎません。
価値観は様々なものがありますから、どれが正解でどれが間違いなどとは言えません。
論理的に、どういう条件なら筋が通っているとか、筋が通らないという意味での、正解や間違いという判断はできます。
しかし、ある価値観が絶対的に善いとか悪いなど、永遠の倫理観があるわけではないのです。
そう言うと、「殺人は絶対的に悪いことじゃないか」と反論する人もいるでしょう。
でもこれも、条件があってのことだと思います。
たとえば戦争において相手の兵士をたくさん殺せば、非難されるどころか勲章をもらえます。
「殺人=悪い」なら、罰せられるべきでしょう。
ただ同じ戦争で殺した場合でも、戦勝国では褒賞されますが、敗戦国では犯罪者となって処罰されます。
それは、すでに歴史がそのことを明示しています。
あるいは、死刑を執行する人も、ある意味で人殺しをすることになりますが、その人はそれをすることで給料をもらえます。
そして誰からも非難されません。
最近は死刑を、国家による殺人という言い方をすることもあります。
つまり、その組織にしたがった殺人は非難されないものの、それ以外の殺人や、その組織に反する組織が支配した時は非難されるということです。
「じゃあ、殺人をしても良いと言うの?人を殺してもかまわないとでも?」
そう言いたくなるかもしれません。その気持はわかります。私もそう思っていましたから。
ただ私が言っているのは、永遠不滅の絶対的な価値観とか、全員がしたがうべき価値観などというものはない、ということなのです。
その人が、その時点で考える価値観は、当然あるでしょう。
したがって、自分が自分の価値観にしたがえば良いだけであって、他人を自分の価値観にしたがわせる必要性はない、ということなのです。
「それでは規律が乱れるじゃないか?規律が乱れたら風紀が悪くなる。」
そう考えるかもしれませんが、それはどうでしょうか。
たしかに規律は乱れるでしょう。だって規律などというものがないのですから。
しかし風紀が悪くなるかどうかは疑問です。
なぜなら、風紀が悪いと感じるのも、ひとつの価値観に過ぎないからです。
それを心地良いと感じる人もいるかもしれません。
なお、だからと言ってルールが不要だと言っているわけではありません。
ルールは、お互いが快適に過ごすための取り決めですから。
そのルールを守るかどうかは、その人次第です。
それが自由と言うものです。
ただ、もしルールに罰則があるなら、処罰されることになるでしょう。それもまた取り決めですから、仕方ありません。
私は、ルールはなるべく個人の自由を尊重するものであってほしいと思います。
無用に行動や思想を縛ったりしないこと。それぞれの価値観を尊重し、共存できるものであってほしいと思うのです。
そうすれば、誰かを非難したり、憎むようなことも少なくなるでしょうから。
2012年07月10日
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