私は今までに6回の大きな引越しを経験しましたが、前回はその1回目について「生きるためにはカラを破るしかなかったのです」 という記事を書きました。
今回は、2回目の引越しについて書きます。
2.2つ目の大学に新聞奨学生として入る ために広島から大都会の東京(住所は川崎市ですが)へ
新興宗教にハマった までは良かったのですが、様々なことを経験する中で生き方に行き詰ってしまいました。
その結果、人生をリセットしようとして、大学に入学し直すことにした のです。
2つ目の大学に通うために、私は神奈川県川崎市へ引越ししました。
まずは新聞奨学生としての生活を始めなくてはなりません。
田園都市線の高津駅の前に読売新聞の販売所があって、そこで働くことになりました。
そこには同じ新聞奨学生の先輩も多数いて、同期生も他に4人いたと思います。
新聞配達に必要な知識を、一から先輩に教えてもらいました。
折込チラシを効率良く入れる方法、順路帳の見方や書き方、自転車に安定的にたくさんの新聞を積む方法、自転車を倒さずに立てる方法などなど。
最初は順路帳を見ながら配達するので、ものすごく時間がかかります。
それを私より年下の先輩が、辛抱強く優しく教えてくれました。
まったく初めての生活環境の中で、優しく受け入れられたということが、どれほどありがたかったかしれません。
同じ大学へ通う先輩(もちろん年下です)もいて、大学のこともあれこれ教えてもらいました。
どの先生の単位が取りやすいとか、通学の仕方なども。
通学するには自転車で溝の口駅へ行き、南武線に乗り換えて登戸駅へ。そこで小田急線に乗り換えてから鶴川駅まで行きます。
小田急線は逆方向になるので空いていますが、ここで座ると大変です。眠ってしまうからです。
乗り過ごして隣の玉川学園駅や、ひどいときは町田駅まで行って折り返したことが何度かあります。
鶴川駅からは歩いても行けますが、たいていはバスに乗って大学まで行きました。
配達後に販売所で朝食を食べますが、それから部屋に戻ってもまだ7時くらいです。
なるべく1限目の授業を取るようにしましたが、それでもまだたっぷり時間があります。
それでも私は、すぐに大学へ行くようにしました。部屋で横になると、寝てしまうからです。
大学に早く着いて、1限目の授業が始まる教室で、机に突っ伏して寝たものです。
それだけ睡眠不足な状態が続きましたが、まだ若かったし、緊張感があったからやれたのでしょう。
そういう緊張感を持ち続けられたのは、1つには人生をリセットしたという思いです。もう後には引けなかったのです。
私には、逃げて帰る場所はない。ここで4年間やりきって、大学を卒業するしかないのだ。そう、思っていました。
そう覚悟を決められたのも、自分で環境を一変させたからでしょうね。
新聞配達そのものもそうでしたが、それと大学の両立は、けして楽なものではありません。
少なくない人が大学や専門学校の方をあきらめてしまい、留年したり、退学することになります。
中には、配達中に自転車を置いたまま、逃げ出す人もいます。集金中に回収した新聞代を持ったまま、姿をくらます人もいたようです。
私にはそれなりの覚悟がありましたから、まずそういうことにはならないと思っていました。
ただ、マンネリになると人の気持ちは変わります。
そう考えて、マンネリにならないように、自分の気持ちを鼓舞することを考えたのです。
その1つの方法が、「心を癒す鏡のワーク」 でした。
鏡に映る自分自身を励まし、元気づけたのです。
「こんなこと大したことじゃない。お前ならやれる。大丈夫。お前は天才なのだから。」
ともかく自分を褒め、認め、激励したのです。
他にも自分に対する応援歌を替え歌で作って、配達中などに歌いました。
気分が高揚する音楽をまとめてカセットテープに入れ、機会があれば聴くようにしました。
こういうことをしてマンネリ化を防ぎ、常に新たな気持ちで日々に臨もうとしたのです。
昔、中国の殷王朝の湯王は、毎朝洗顔するたらいに、次の文字を掘らせたそうです。
「湯(とう)の盤の銘に曰(いわ)く、苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなりと。」
洗顔するたびにその文字を読み、新たな気持で政治に臨もうとしたのでしょう。
「初心忘れるべからず」と言いますが、それにも努力が必要だと思います。
そしてその努力を支えたのは、「自分が決めたことだ。撤退するという選択肢はない。」と、退路を断つ決意だったと、今になって思うのです。
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