私は以前、愛は川の水のように流れるものだと考えていました。
誰からから愛を受けて満足することによって、初めて他の人を愛せるようになるのだと考えたのです。
それを示したのが、以下の図にあるモデルです。
バケツは、人の心です。
心という器に溜まった愛は、いつしか溢れ(=満足)て、外へ流れ出します。
その愛がまた、他の人のバケツを満たしていくのです。
このモデルだと、子どもの頃に親から愛されない子が、大人になって他人を上手く愛せないという現象をうまく説明できます。
私自身も体験上、愛されて満足することによって、他の人を愛する気力が湧いてくることを知っていました。
ですから、まず最初に誰かから、たっぷり愛される必要があると考えたのです。
しかし、一番最初に愛してくれる存在とは、いったい誰でしょうか?その問題があります。
その答を、私は絶対的な神だと思ったのです。
もし絶対的な愛の神という存在があるとするなら、この答は完璧です。
神には不可能なことはありませんから。
人間をたっぷり愛するなど、お茶の子さいさいというものでしょう。
しかしまた、愛の減少感という問題 があります。
カインとアベルの物語でも、カインは神の愛が減少したと感じたのです。
絶対的な神の愛がなくなると言えば矛盾になりますから、受け手であるカインが、感じ取れなかったと説明したのです。
そうすると、愛を受けているにも関わらず、愛を感じられないという現象に対して、どう説明すればよいか困ってしまいます。
愛は流れ込んでいるのですから。それを感じられないのは、感じない人が悪いのだ。
それで終わってしまっては、救いがなくなってしまうでしょう。
実際、谷底に突き落とされる子ライオンの例え でも、親ライオンの愛を信じて崖を登る強い子ライオンは救われますが、弱い子ライオンは這い上がれずに死を待つばかりです。
それでは、愛の神のプランとしては、あまりに不出来ではありませんか。
そこで私が考えたのは、愛は川の水ではなく、海の水だというモデルです。
愛は海の水のように、一面に満たされています。
その中に私たちはいるのです。
長くその中に居ると、だんだんと海の水があることを忘れていしまいます。
それはちょうど私たちが、空気の存在を忘れているようなものです。
そこに風が起こると、私たちは空気の存在を風として感じます。
海の水も同じです。
水はそこにずっとあるのですから、単に押し出してやれば良いのです。
水を押し出す、つまり愛することによって、愛の流れを起こすのです。
相手は、愛の流れを受けて、愛されたと感じるでしょう。
押し出した人は、受けた相手から愛が返ってくるのを待つ必要性はありません。
なぜなら、押し出したあとの空間を埋めるように、他から水が流れ込むからです。
その流れこんだ水の流れが、押し出した人にも水の流れを感じさせるでしょう。
つまり、愛した人から愛が返ってこなくても、必ずどここから愛が返ってくるということなのです。
流れてくる愛を探し求める必要はありません。
愛は常にそこにあります。あなたから押し出されることを待っています。
勇気を出して、愛の流れを作りましょう。
あなたには、それができるのです。
2012年07月03日
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