マザーテレサさんは、愛の反対は無関心だと言いました。
これは実に示唆に富んだ言葉だと思います。
昔は地域の掟を破った場合、村八分という罰が与えられたそうです。
つまり、村人全員からシカト(無視)されるというものです。
無視されるということは、存在を否定されるのと同じこと。
だから、何よりもつらい罰だったのです。
現代でもイジメにおいて、よく利用されますね。
では、関心を持てば愛かというと、必ずしもそうではありません。
よく親の過干渉が問題にされますけど、過干渉というのは関心を持っているからですよね。
これを「愛情が強すぎるからだ」として、適度な関心を持つことが問題なのだと考える人もいます。
いわゆるバランス理論です。
仏教的に言うと中庸(ちゅうよう)ですね。偏り過ぎないことが大切だという考え方です。
私は、バランスの問題ではないと思っています。
そうではなくて、自分の心にとらわれるものがあるかどうかの違いだと思うのです。
とらわれるとは執着のこと。執着心があるかどうか。依存心があるかどうか。その違いです。
執着心や依存心があるということは、何かにとらわれないと存在できないという不安があることを示しています。
つまり、必要性を感じているということです。
逆に言えば、もし必要性を感じていなければ、生じる結果にとらわれません。
つまり、特定の結果に執着することもないし、依存することもない。何があろうともかまわない、という気持ちになるのです。
何があろうともかまわないのだとしたら、それは一見、無関心にも見えます。
見た目は同じようでも、実は心の内がまったく異なるのです。
必要性を感じずに関心を寄せるというのは、ちょうど安全な公園で子どもを遊ばせるようなものです。
これは、「神との対話」に書かれていた例ですけど、説明するのに相応しい例だと思いますので紹介します。
親が安全な公園で子どもを遊ばせるとき、必要性を感じていなければ、子どもが何をして遊ぼうとも気にしません。
つまり、子どもが何をするかということに関しては無関心なのです。なぜならそれは、子ども自身が決めることだから。
何をして遊ぼうとも安全だとわかっているから、安心して見ていられます。
そして、子どもたちは遊びを通じて、成長していくだろうと信じています。
相手を縛らず(執着せず)に関心を寄せるとは、まさにこういうことだと思うのです。
しかし必要性を感じていると、子どもの言動がいちいち気になります。
「もう3歳にもなるのに、あんな遊びしかできなくて、ちゃんと成長できるかしら?」
このように心配になります。つまり子どもを信頼していないのです。
信じていないから、自分の思い通りにさせないと気がすまなくなります。それで過干渉になるのです。
こういう人が、ちょっと干渉するのを抑えようと考えるのが、「バランス」だと思うのです。
いかがでしょうか。まったく異なることがおわかりでしょうか?
バランスとは、単に執着心を減らしただけのことで、愛情とは何の関係もありません。
愛は愛です。少しだけ愛するとか、たくさん愛するなどというものではないと思うのです。
2012年07月03日
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.非常に共感します!
愛ってそんな簡単に量的な判断が出来るものだとは思いませんし
実際過干渉って結構つらいです・・・・・
>おしゃべりアウトサイダー中島和俊さん
コメントありがとうございます。
バランスに思えてしまうことはあるでしょうけど、そうすると何を基準にちょうど良いところを設定すれば良いかわからなくなりますよね。
そうなるとまた、常識とか場の空気というような、他人の価値観(=自分ではない考え方)に依存することになってしまいます。
このことが、このレトリックから抜け出せない原因になっているような気がするんですよ。