実際は、私よりも好きな人は多いと思いますが、比較する機会がなかったものですから。
私の主観の中で、そう思い込んできたのです。
女性を見ればムラムラとした気持ちが頭をもたげ、非ぬことを想像してしまう。
想像しているだけなら問題はないのかもしれませんが、これがいつ現実に実行してしまうかわからないほど、強い思いだったのです。
聖書ではイエスが、情欲の思いで女を見たなら、それはすでに姦淫の罪を犯したのと同じだ、というようなことを言っています。
その意味からすれば、私はとうの昔に罪人(つみびと)なのです。
異端の宗教ではあっても、キリスト教関係の宗教に入信していた私としては、それはとても苦しいことだったのです。
その苦しさから逃れるには、自分を責めて殺してしまうか、あるいは開き直るしかありません。
私はその宗教から脱会するにあたり、その罪だけでも地獄に落とされても仕方がないと考えていました。
また一方では、愛の神がいるとするなら、どうしてそんな私を放っておくのかと、神に対する不信感も持っていました。
もし私を助けようともしない神なら、別にいてもいなくてもかまわない。自分の好きなようにやるだけだと、開き直った気持ちもありました。
22歳くらいで初体験し、異端の宗教の禁を破ったのも、その開き直りの気持ちからだったと思います。
それからも風俗通いを続けるなど、完全に俗に染まってしまいました。
その一方で、古典を読んで生き方を模索するなど、意義のある生を送りたいという気持ちは捨てきれなかったのです。
そんな私が変わったのは、「神との対話」を読んで5年以上も経ってからのことです。
先日の記事にも書きましたが、「神との対話」で神は、やりたければ好きなだけやったら良いと言いました。
「もうこういうのは嫌だ。自分はこんな人間じゃない。」と感じるまでは、人は変わろうとしないし、自分で変わろうとしない限り、人は変わらないからです。
私は、様々な体験をしてきましたが、そうする中で、本当に自分が欲しているものが見えてきました。
漠然と性欲と呼んで、ムラムラする気持ちの正体がわかったのです。
それは、「愛されたい」という強烈な想いでした。
単にエッチなことをしたいという、そんな単純なものではなかったのです。
そういう意味での性欲は、いわゆる好奇心と同じものです。
そうではなく、レイプしてまでやりたくなるような強烈な性欲は、自分を愛してほしいという強い強い欲求が、影に潜んでいたのです。
男は、闘いを好むと言われます。
これなども、実は隠された愛情欲求に過ぎません。
相手を支配し、屈服させたいのですよね。屈服とは、完全服従です。自分の意思など持たず、ただただ私を賞賛することを求める気持ちです。
でも、実際にそういう人に囲まれたら、満足すると思いますか?
私は、満足しないと思います。完全に言いなりでは満足できないのです。その人の自由意志で賞賛してくれないと、喜べなくなってしまうのです。
なぜなら、本当は愛されたいのですから。
性欲も同じです。
男の性は支配欲だとも言いますが、支配したいのは愛されたいからです。
愛されたいから、襲うのです。愛されたいから、所有したくなるのです。そういった欲求の根源には、愛されたいという思いがあるのです。
私は、そんなにも愛されたくて、愛されたくて、仕方ない人間だったのです。
そのことがわかったことで、私の心に抱える問題の多くが解消しました。
「愛されたい」という思いを解決すれば、すべてが解決するからです。
そして、その思いも解決しました。
2007年のある日だったと思います。
いつものように出勤し、職場から窓の外を眺めていた時でした。
ふとある感情が私の心を支配しました。
そして、それまで何度も頭の中で繰り返していた言葉が、心にスーッと染み入っていったのです。
必要なものなど何もない。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。
朝、人の生きる道がわかったら、夕方に死のうともかまわない。それくらいの強い思いで道を求めたという話です。
私はそのとき、その言葉を思い出しました。まさにそのときの私は、もういつ死んでもかまわないという気持ちになったのです。
涙が溢れて仕方ありませんでした。
仕事中だというのに、オフィスの片隅でしばし、その満足感を味わっていたのです。
「ああ、これほどまでに私は愛されていた。」
そう感じたのです。
【├ 私の生い立ちの最新記事】
自分の発言に対する他人の反応に対して、
完全に自由でらっしゃるようすが、
この日記からひしひしと感じられました。
私はまだそこまでいっていませんが、
とても学びになりました。
ありがとうございます^^)
>まなびーさん
コメントありがとうございます。
「完全に自由でありたい」と思っています。
でも、なかなかそうは行きませんね。
だって現実は、本当に現実的ですから。
常に本質を思い出そうと務めています。
カトリックなどはその辺のことを真剣には考えていないのかもしれません。
強い性欲の背後に、あるいは延長上に愛されたい!願望があるとは驚きました。
自分のことをここまで誠実に描いてくださると、私のような人間にとっては大きな救いです。
ありがとうございました
こんにちは、幸せ実践塾塾長の赤木です。
この記事がお役に立てたようで、私も書いた甲斐があったというものです。
性欲の問題は、私にとっては大きな問題でした。
そして、性犯罪が多いことからしても、これは普遍的な問題なのだろうと思っていました。
この記事に書いたことは、悩んできた私のとりあえずの結論です。
これがまた変わるかもしれませんけどね。
人は常に変わるものであり、変化とは進化成長ですから。
ただ、この気付きによって、私自身が救われたことは事実です。
同じように感じていただけたことは、私にとっても喜びです。
ありがとうございました。