先日、福島の桃を注文して親元に送ったという話を書きました。
その最後に、届いた桃を食べるかどうかは、親が勝手に決めることだということも書きました。
放射能が怖いから食べないという選択も、あって良いと思うからです。
これを書きながら、こんなふうに思う人もいるだろうなと思いました。
「だったら厄介なことを親に押し付けなければいいじゃないか。送られた方は迷惑だよ。」
たしかに、最初に親に確認して、食べるなら送るという方法が良いのかもしれませんね。
伊達直人現象の時も、相手の施設が何がほしいかわからないのだから、最初に聞くべきだという意見がありましたが、それと同じです。
その考え方もあると思いましたが、私は、何も聞かずに買って送ることにしたのです。
それは、それをどうするか考えることも、親にとっては意義のあることだと思うからです。
そして、桃を買って遅れる場所としては、親ほど気心を許せるところがないからです。
まず桃を買うことが最優先だったから、あえて親には聞きませんでした。
まあ、これはもうしょっちゅうなので、親が何も言わないことはわかっていますけどね。
この世の出来事は、複雑なパズルのようなものだと思うのです。
私にとっては、私に関わる出来事が人生の全てです。
しかし、他の人には、それぞれの人に関わる出来事が、その人の人生の全てです。
そういうそれぞれの人生が、複雑に絡み合っているのです。
たとえば今回、私は福島の桃を親に送ることで、親の人生と私の人生が関わりを持ったのです。
私は、「これを親に送ることはどうだろうか?」と、いろいろなことを考えました。
福島の桃を親に送るという出来事によって、様々なことを考えさせられたのです。
私の親はまた、私から福島の桃が送られてくるという出来事によって、様々なことを考えさせられたでしょう。
このとき、私が最初に親に確認して送るのか、あるいは確認せずに送るのかによって、また親の方の受け止め方も変わったでしょう。
あるいは受け取った親がどんな反応を示すかによって、私の受け止め方も変わったでしょう。
このように、それぞれの反応の仕方によって、また相手に与える印象が変わったりします。
それがどんな反応だとしても、相手の人生に関わり、何かを与えることになるのです。
このとき、出来事が感情を決めるという考えの人は、影響を与える側が気を使うべきだと考えます。
つまりこの例では、私が福島の桃を送るとき、気を使うべきだと言うのです。
それに対する親の反応の責任は、その多くが私にあるということになります。
たしかに、そういうこともあると思います。
たとえば私が福島の桃を親に送らなければ、親の人生とは関わらなくて済んだのです。
それがもし、送ることによって親が嫌な気分になったとしたら、送った私が悪いと非難したくなる気持ちもわかります。
しかし、そうじゃない反応を親がする可能性もあります。
送られてきた福島の桃を見て、被災した人たちへの気持ちを新たにするきっかけになるかもしれません。
自分の息子が被災地を応援しようという気持ちを持っていることを知って、誇らしく思うかもしれません。
どう思うかということは親自身が決めることであり、私には関与できないことなのです。
だとしたら、相手の反応に全責任を負う必要はない、と私は思います。
これは、傷つける方よりも傷付く方が悪い、と言われた話と同じことです。
もちろん、自分が想像できる範囲内で、相手の反応を想像しながら決めることはするでしょう。
なぜなら、それはまさに自分を規定することだからです。
たとえば、レストランで食事をして支払いをせずに逃げるという行為はどうでしょうか?
捕まれば罰を与えられるとしても、もし絶対に捕まらない方法があったら、あなたはそれをしますか?
美味しい料理を腹一杯に食べられます。しかも、自分の懐は痛みません。一石二鳥じゃありませんか。
それで罰を受けないとしたら、あなたはやりますか?
私はやりません。なぜなら、その料理を提供してくれた人が喜ばないことを想像するからです。
美味しい料理を一所懸命に作ってくれた人たちが悲しんだり、悔しがったりする姿が想像できるからです。
そういう人たちを、そういう目に合わせたくない。そういう人を悲しませて平気でいられない。
それが自分という人間だと思うから、そんなことはしたくないのです。
罰せられるかどうかなど、どうでも良いことです。法があろうとなかろうと、私は、私らしくないことはやりたくないのですよ。
相手が傷つくかもしれないことは、できるだけやりたくないと思う。
それでも、そうすることで何らかのメリットがあるかもしれないことは、やりたいと思うのです。
たとえばそれをやった結果、相手が傷ついたとしましょう。
その相手の反応は、そのまま私に与えられた贈り物になります。
私はその贈り物を受け取り、私の考え方の糧にするのです。
「今度からはもっと慎重にやろう。」そう考えるかもしれません。
あるいは、「傷つけたことは申し訳ないし、その痛みを私自身も追わなければならない。でも、このことは続けて行かなければならにんだ。」と、さらに決意を固めるかもしれません。
いずれにせよ、その人のその反応こそが、私へのありがたい贈り物となるのです。
先日タイで、大学の卒業式帰りの親族15名が帰宅途中で事故を起こし、その卒業生などが亡くなったそうです。
こんなことが、世界中のいたるところで毎秒毎秒起こっています。
それが事実だとしても、私やあなたの人生にとって、何の影響があるでしょうか?
何も影響はありません。なぜなら、知らないからです。自分の人生に関わってこないからです。
この世は、それぞれの人生がその人の世界を作りながら、その周りの多くの人生と絡み合うことによって互いに影響し合うようになっています。
しかもその人の人生は、その人の思うとおりになるようになっていると言われます。
そんな不思議な世界が、何の意図もなく作られているとおもいますか?
こんな複雑なパズルを創れるとするなら、それは私たちが一見、別々の存在のように見えて、実は「ひとつのもの」だということを示していると思うのです。
2012年07月02日
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