私が考える究極の真理は、「すべてはひとつのもの」ということです。
たったこれだけで、多くの謎に答が出てしまうことが、私にとって驚きでした。
すべてがひとつなら、それが存在するために他には何も必要がないということです。
何かが足りないということもありません。
すべてが十分にあるということです。
ここから、必要性があるという考え方は幻想だということが見えてきます。
また、時間も空間も含めてすべてなのですから、そのひとつのものは永遠に存在します。
私たちが「存在」という言葉を使うときは、暗黙のうちに時間軸を考えています。
でも、その時間さえもがひとつのものに含まれるとしたら、時間で制限されることは矛盾します。
だから「永遠」なのです。
これも本当は、時間軸で見た永遠とは違うのでしょうけど、時空に縛られた私たちには、実感することができません。
永遠でありながら、この世には生滅や増減があるように見えます。
だとしたらそれは、変化と考えるのが適切だと考えられます。
物理では、エネルギー保存の法則というものを習いますよね。
エネルギーには熱エネルギーとか位置エネルギーなどがありますが、その総和は変わらないということです。
つまりエネルギーは変化しながら、永遠に存在し続けるのです。
それとまったく同じことではありませんか。
では、そんなふうに全てであり、永遠であり、変化するという「ひとつのもの」が本質なら、どうしてこの世のような形で現れるのでしょうか?
そこで、この世がどうなっているかを調べてみる必要があります。
よくよくこの世を見ると、すべてが相対的だということがわかります。
上と下、速いと遅い、高いと低い、太いと細い、右と左、男と女、光と影、...。
あらゆるものが相対的にできています。
なぜ、そうでなければならなかったのでしょう?
その理由を考えると、「比較するため」という答しか見つからなかったのです。
相対的なモノ同士を比較することによって、それぞれの存在を知るのです。
自分が高いということを知るためには、低い存在が必要です。
自分が男だということを知るためには、それとは違う女という存在が必要なのです。
では、比較して存在を知ると、どんなメリットがあるでしょうか?
それは、その存在の素晴らしさを感じるということです。
明るいことがどれだけ素晴らしいかを知るためには、暗闇の不安が必要だったのです。
暗闇の美しさを知るためには、なんでも見える明るさが必要なのです。
力強い男の素晴らしさを知るためには、弱々しい女の存在が必要なのです。
繊細でたおやかな女の素晴らしさを知るためには、荒々しい男の存在が必要だったのです。
このように相対的にできているから、私たちは比較することでその素晴らしさを知り、喜ぶことができます。
不思議なことですが、私たちは素晴らしいと感じて喜ぶという性質があります。
そういう性質を持っているということは、すなわち「そうしたかったから」という理由が見えてくるのです。
そう考えると、この世は素晴らしくよくできていると思えませんか?
「ひとつのもの」は、自分自身を体験的に知って喜ぶために、この世を創造したとも言えます。
だから私たちの生きる目的は、喜ぶことなのです。
人生を楽しんで、喜ぶことこそが、私たちの生きる目的だと思うのです。
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