Jターンを希望して岡山の会社に転職したものの、また東京に転勤することとなり、東京で働いていたある日のことです。
月に1回くらい上司が上京してくるのですが、どういうわけか2人で話をすることになったのです。
場所はどこだったか忘れました。ひょっとしたら新宿の京王プラザホテルの1Fにある喫茶店だったかもしれません。
上司は、協力会社の社長さんとよくタイへ行っていたのですが、タイでもソフトウェア開発の仕事があるというような話をし始めました。
最初は、なぜそんな話を私だけにするのか、よくわかりませんでした。
しかしそのうち、「ははん、これは私にタイへ行けということだな。」と直感しました。
その理由は2つです。
タイで新たに事業を立ち上げるのですから、経験の浅い若手では荷が重過ぎます。
それと最低でも3年は戻って来られないでしょうから、家族持ちではかわいそうです。家族と一緒に赴任させるのも難しいので。
となると、我社では私しか適任者がいないのです。自惚れではなく、客観的な判断です。
私は、上司から「行ってくれないか?」と問われる前に切り出しました。
「私に行けということですよね。わかりました。私が行きましょう。」
他でも書きましたが、重要なことほど即断即決をモットーにしていたからです。
こうして私のタイでの生活が始まることになりました。
親にそのことを告げた時、母親は反対しました。
「あんた、どうして断らんの?断ることもできたんじゃないの?」
東京に住んでいるのと大して変わらないとも思うのですが、一度も海外へ行ったことがない親からすれば、外国ははるかに遠いという印象なのでしょう。
それに、万が一、親に何かあっても、そう簡単には帰国できませんから。
私も、悩まなかったと言うとウソになります。
第一に私は、英語がまったくダメなのです。
ミーティングは英語でやると聞かされていました。ただ上司が言うには、プログラムに関する話しなら、そんなに難しくはないはずだと。
にわかには信じられませんでしたが、私は考えないことにしたのです。
だって少々困難があったとしても、それが行かないことの理由になるとは思えなかったからです。
タイに赴任して数年立った頃、やっと仕事や生活にも慣れてきました。
これで何とかなりそうだと思えてきた頃、私はふと思いました。
「運命とは不思議なものだなあ。本当なら、島根県の田舎で教員か何かやって、平凡な人生を送るはずだったのに。それが東京に出ることになったり、果ては外国で暮らすことになるなんて。まったく想像もしていなかったよ。」
そんなことを思った数日後、私は自分が作っていたホームページを整理しました。
過去(1998年10月以前)に書いた記事などを懐かしく思いながら読んでいた時、思わず「ウッソー!」と叫んでしましました。
そこには、こう書かれてあったのです。
「ぼくが好きなアジアの国々を一人で旅行したい。そこに住む人たちと、いろいろな話しをしてみたい。」
これには驚きました。私にそんなアジア願望があったなんて、まったく覚えていないのです。
タイへは会社の旅行で来たことはありましたが、特にまた行きたいなどと考えてもいませんでした。
当時はフィリピーナに熱を上げていた頃ですが、それでフィリピンへ行きたいと思ったとは考えられません。
それで他を探してみたら、影響を受けそうな数冊の本を読んでいたことがわかりました。
・「国際結婚ナイショ話」(草思社/川口マーン恵美) 1998年8月
・「フィリピンはいま。」(ダイヤモンド社/北條猛[丸紅広報部 編]) 1998年9月
・「タイ少女白書/僕らのNGO物語」(文芸社/藤岡和幸) 1999年2月
・「おじさんだって、アジアに行きたい」(文香社/荒木左地男) 1999年5月
こういった本を読んだりする中で、知らず知らずにアジア願望が根付いたのかもしれません。
そして私の潜在意識は、私のアジア願望を叶えるべく、私の人生を導いたのではないかと思うのです。
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