そう言うことがけっこうありませんか?
「普通はこうするでしょう?」「こうするべきでしょう?」
このように、大多数の人がそう考えることを「常識」という言葉で示し、暗黙のうちにそれに従うべきだと考える人が多いように思います。
しかし、その考え方こそが、あなたを幸せから遠ざけているのです。
「でも、常識に従っていたら批判されることもないし、第一、みんなが常識に従えばすべてがスムーズに行くじゃないの。」
そう反論したい気持ちはわかります。私もかつて、そう考えていましたから。
それに、おっしゃるとおり、常識にしたがうことで無用なトラブルを減らせるというメリットもあります。
それをわかった上で、敢えて常識にしたがうことの問題点を指摘したいのです。
そもそも、常識って誰が決めているのでしょうか?
「そんなのみんなが決めているに決まっているじゃないの。」
本当にそうでしょうか?みんなの意見を聞いてみました?それにみんなって、いったい誰ですか?
厳密に言うと、常識を決めているのはあなたです。あなたの常識は、あなた自身が決めています。つまり、そう思い込んでいるだけ、ということですよ。
そう指摘すると腹を立てて、「だったらこの辺にいる100人にアンケートをとってみようじゃないか。」と言う人がいます。
どうしても自分の正当性を、人の数で保証しないと気がすまないのでしょう。
ですが、怒るということがすでに、私の意見の正しさを証明しています。
怒るのは不安だからです。自分の考えが否定されることが、自分自身の存在意義が否定されたような気持ちになるから、それでたまらずに怒るのです。
どうして怒る必要性があるのでしょうか?自分が正しいと自信があるなら、起こる必要性などないでしょう。
次に、どうして常識(大多数の人の考え)にしたがわなければならないのでしょう?
常識にしたがわなければならない根拠がありますか?
常識派の人だと、頭から湯気がわくほどカッカしてきそうですね。
まあ落ち着いてください。私もかつては常識派の人間でした。常識にしたがわない人を許せなかったのです。
でも、今は違います。
特にタイで暮らすようになって、日本の常識が通用しない場面に何度も遭遇することによって、自分の考え方が間違っているのかもしれないと気づいたのです。
ここで注意してほしいのですが、私が言う「正しい」とか「間違い」という言葉の意味は、倫理的な意味での善悪ではありません。
あくまでも私の目的に対してのもので、そう考えることで目的に適うなら「正しい」、適わないなら「間違い」と言っているだけです。
ちょうど、大阪から京都へ向かうのに、東京行きの新幹線に乗れば「正しい」ですが、博多行きの新幹線に乗ったら「間違い」というのと同じです。
幸せになりたいとか、自分らしく生きたいという目的があるとき、常識にしたがうことを絶対的なものと考えると、それは間違いなのです。
先ほども言いましたが、常識というのは自分が作り上げた考え方です。世間の人はこう考えるのだろうなと推測した考え方です。
それがどういうものであれ、自分が望む考え方でない可能性がありますよね。
そして、それにしたがわなければならないと考えることは、考え方の変化を許さないということです。自由を奪うということです。
自分らしい考え方を選択する自由を奪っておいて、それで幸せになれますか?自分らしく生きられますか?
どう考えても、それは無理でしょう。理屈として間違っているのですから。
「そんなの常識だよ。」という口ぐせをやめましょう。
そう言うと、そこで思考がストップしてしまいます。
「多くの人はこう考えるかもしれないけど、本当にそう考えるのが今の自分にとって良いのだろうか?」
そういうように考える習慣を身につけましょう。時には一度決めた自分自身の考え方も、疑ってみることが大切です。
人は成長します。いろいろな出来事を体験することによって、考え方が変わります。
いえ、むしろ変わって行かなければなりません。存続するということは、変化するということ。無理に押し留めておくことは危険と言えるでしょう。
無条件に他人の意見にしたがうのをやめることです。
「あの人はそう言うけど、私はどうなのだろう?」
基準は、そう考えることが楽しいかどうかです。楽しいならば、それはその時点で自分らしいと感じていることです。
斎藤一人さんも言われてますが、正しいかどうかではなく、楽しいかどうかで判断しましょう。
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