最初はフィリピンの子どもを対象にしましたが、1ヶ月にに4,000円から5,000円くらいを寄付するのです。
そのお金は、一部は会の経営のために使われますが、多くはそのまま子どもの家族に渡ります。
生活費になることもあるでしょうけど、指定された学校に通うことが条件となります。
タイに来てからは、タイの子どもを対象にした支援も行うようになりました。
そんな中で私は、1人の女の子と出会うことになりました。
今も手元に残っていますが、あるボランティア団体の会報に、その女の子のことが載っていました。
クロントイ港の近くにあるチュアパーンスラムで暮らす23歳の女の子。名前はジンタナーと言うそうです。
これはニックネームです。タイではみんな、自分のニックネームを持っていて、通常はそのニックネームで呼び合うのです。
彼女は13歳のときに、心肺同時移植の手術を受けました。
術後の経過は順調だったものの、余命3年と告げられます。
移植による拒否反応を抑えるため、免疫抑制剤を飲み続けなくてはなりません。
その薬の副作用や、免疫力低下による感染症。体調不良に悩まされる日々を送ることを余儀なくされます。
それでも彼女は明るく前向きです。専門学校で手芸を習い、通信制の大学へも入学します。
せめて自分のノート代くらいは稼ごうと、積極的に縫い物や編み物をしたそうです。
ここ数年は体調を崩すことが多く、やせ細り、立っていることさえ苦しい。
でも彼女は、「生きる機会をもらったのだから、毎日を精一杯生きていくしかない」と言って、けしてあきらめたりしません。
その会報には、彼女の後ろ姿が写ったモノクロの写真がありました。
ただひたすら裁縫をしている痩せこけた女の子の後ろ姿です。
最後に、支援の要請が書かれていました。
彼女を支援するための基金を設けているものの、資金が不足しているからと。
私は、迷わずにメールを出しました。
もしまだ支援金が不足しているなら、私ができる範囲で支援させていただきたいと。
それが、2006年9月のことでした。
ボランティア団体では彼女に毎月2,000バーツを支援しているが、基金の残高が4,156バーツになっているとのこと。
私は、1万バーツの支援をさせていただくことにしたのです。
それからしばらくして、彼女から手紙が届きました。
支援に対するお礼が、便箋2枚にびっしりと書かれていました。
そして彼女が手で編んだ携帯電話ケースも入っていました。
おそらくこういうものを作って売っては、少しでも生活費や学費の足しにしようとしているのでしょう。
私の支援が多少でも役に立つならそれでいい。私はそう思いました。
年が明けた2007年1月17日、私は彼女を支援しているボランティア団体へメールを出しました。
その後、彼女が元気でやっているか、様子を知りたかったからです。
すると19日、ボランティア団体の方から電話がかかってきたのです。
「ジンタナーさんは今、ICU(集中治療室)に入っていますが、面会に来られますか?これが最後のチャンスになるかもしれませんから。」
私は迷いました。行って支えてあげたい。もし彼女がそれで喜んでくれるなら。でも、...。
結局、私は、断りのメールを出しました。
支援者は、いずれ忘れられるのが良いと思っているからです。いつまでも支援を受けた側の重荷になってはいけない。だから、ずっと足長おじさんであれば良いのだと。
彼女はその日のうちに、ICUから出されてしまったそうです。3日も意識が戻らず、もうあとは死ぬのを待つばかりだという医師の判断なのでしょう。
私は、「彼女はきっと思う存分に生きたのだと思います。1000の風に姿を変えて、大空を飛び回ることでしょう。」と、メールを送りました。
1月23日、彼女は亡くなりました。
大学の卒業式が目前で、その卒業式に出たがっていたそうです。
タイでは、大学を卒業するということは、国のエリートとして尊重されます。なので卒業式では、必ず王室の方から卒業証書を手渡ししてもらうのです。
王室の方は人数も限られているため、タイの大学の卒業式は通年で行われます。
大学は卒業したけど、卒業式は数ヶ月先だということは、普通にあるのです。
そのハレの場に、彼女も誇らしい気持ちで出席したかったのでしょう。
彼女の姿のままで、その体験をすることはできませんでした。
しかし私は、きっと彼女は自由な姿となって、学友たちと一緒に卒業式に出たと思うのです。
1月23日は、私の会社でリーダーミーティングを行う日でした。
私は、彼女のことを社員に話すつもりでいたのです。
まさか、ちょうどその日に亡くなるなんて、思ってもいませんでした。
それでも、これはきっとそういう運命だったのだと思うことにしました。
我社の社員にどう伝わったかわかりませんが、私はジンタナーさんの前向きな生き方について話しました。
そして、その日の朝に亡くなったことも。
あれからもう5年になります。
今でも彼女のことを思うと、涙がこみ上げてきます。
それは悲しいからではありません。
悲しくはないけれど、涙がこぼれて仕方ないのです。
おそらくそれは、そこに愛を感じるからだと思います。
彼女のことを思うたびに私は、前向きに生きようと思います。
彼女でさえできたのです。私がやらなかったら、あの世で彼女から笑われてしまいますから。
私は何があっても、絶対にへこたれない。そう決めたのです。
なぜなら私の心には、いつもジンタナーさんがいてくれるから。
ありがとう。あなたと出会えたことは、私にとってこの上ない幸せなことだったと思います。
たった1万バーツを支援しただけ。たった1回手紙をくれただけ。それだけだったかもしれないけれど。
それでも私は、心からありがたいと思うのです。ありがたくて、ありがたくて、仕方ないのです。
支援させてくれて、ありがとう。そんなつらい中でも、前向きに生きてくれてありがとう。ただただ、ありがとう。
どんなに言葉を尽くしても、私の思いはそれよりも何倍も何十倍も大きくて、言い足りないと感じてしまうのです。
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いつも素晴らしいお話をありがとうございます。
私も、くじけずに、前向きに生きて行こうと思いました。泣きごとや言い訳は一切止めます。
、、、いや、時々、言いそうですが、、、
>偏食園児も怖くない!−7歳に見えるマクロビ給食先生さん
コメント、ありがとうございます。
きっと誰にでも、ジンタナーさんという存在がいるのだと思います。
だってこの世は、愛に満ちているのですから。