NHKの番組で、歌手のイルカさんが福島県を訪れていました。
私もこの4月、やっと福島へ行きましたので、感慨深いものがあります。
本当は昨年の4月行く予定だったのが、大震災の影響でキャンセルしたのです。
4月の福島は、雪と桜が同時に楽しめるので、それを期待していました。
でも今年は寒くて、残念ながら桜は見られませんでした。東京で見られたので、妻は喜んでましたけど。
福島市の桜の名所はたくさんありますが、中でも有名なのが信夫山公園でしょう。
イルカさんも、街の真ん中にあるという信夫山に登ってましたね。そこに震災の被災者も来られました。
福島市にある仮設住宅には、津波や原発事故の被災者がまだ暮らしておられます。
もう1年以上になるというのに、帰る目処もたたないのだとか。
本当に、何と言って差し上げれば良いか、言葉に詰まってしまいます。
ある被災者の方が言われてました。
「私は津波で家が流されたから諦めもつくけど、この人は家があるのに放射能の影響で帰ることができないから、私よりもつらい思いをしている。」
その話を聞いた時、「いや、家を流されたあなただってつらいでしょう」と思いました。
他の人を気遣うことによって、自分のは大したことないと言うことによって、つらさを軽減しようとされたのでしょうか。
そのとき、私は思いました。
たしかに震災の被害にあって自宅に帰れないというのは、どんなにかつらいことでしょう。
その気持はわかります。わかった上で、それでも言いたいのです。
もっとつらい思いをしている人は、世の中にはそれこそ山のようにいますよ。それと比べたら、大したことないと思えるのではありませんか。
大変な目にあったという事実を、矮小化しようという意図ではありません。ましてや、その事実をつらいと考えることを、批判する意図でもありません。
ただ、もし幸せになりたいなら、他の考え方を選択することもできるということを、知ってほしいのです。
世界には、内戦や戦争などで家を失い、住む場所を追われ、仮設住宅どころかテント生活を強いられている人々が何万人、何十万人といます。
もしそういう人たちのところへ行って、支援するボランティア活動をしたといたら、どう感じるでしょうか?
それでもまだ、自分の不幸を嘆くでしょうか?おそらくそんなことはしないでしょう。
私が大失恋から学んだことのの1つは、自分だけが不幸だと考えていると、簡単に不幸になれるということです。
それがもし、他にも自分以上に不幸な人がいるとわかると、自分の不幸など大したことないと思え、元気が出てくるのです。
この世は、比較するために相対的にできています。 比較するからこそ、自分のことを体験的に知ることができるのです。
事実を変えることはできませんが、視点を変えることはできます。視点を変えて、フォーカスする対象を変えるならば、その事実は不幸にも幸福にもなるのです。
だからこの世は、いつでも「上には上がいるし、下には下がいる」ようになっているのです。
「いやいや、自分こそが絶対に一番下だよ。」
そう自信を持って言える人が、本当にいるでしょうか?
見えない、聞こえない、話せないという、三重苦で有名なヘレン・ケラーさんは、日本が好きで、日本に来たことがあったそうです。
そのとき、中村久子さんと出会いました。
するとヘレン・ケラーさんは驚き、そしていたわりの気持ちを込めて、こう言われたそうです。
「私よりも不幸な人がここにおられた。」
中村久子さんは、手足がほとんどないダルマのような格好で、それを見世物にして生活をした方です。
お母さんから厳しくしつけられ、口を使って裁縫さえされたとか。
唾液で布を汚さないよう、唾液を出さないように訓練されたそうです。
では、中村久子さんは、自分こそが世界で最もつらい思いをした人間だと感じていたでしょうか?
おそらくそうではなかったでしょう。
だから自らの境遇を受け入れ、強く、輝いて生きられたのです。
この世は、比較するためにあります。
大いに比較したらよろしい。
ただし、上には上があり、下には下があるのです。
誰と、あるいは何と比較するのか、その選択が重要です。
何とでも比較できる自由があり、それによって自分の感情を選択することができる。
そのことを知ってほしいのです。
2012年06月23日
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何時も良いお話有り難うございます。目の前が広がるようです。
今日も広がりました。
>going.my.wayさん
コメントをありがとうございます。
そう言っていただけると、私も嬉しいですね。