女:「ねえ、本当に大丈夫?あなたのことが心配なのよ。」
男:「大丈夫だよ。ぼくを信じて。きっと上手くいくから。」
愛し合う男と女の会話に、よく出てきそうなセリフです。
しかし、ここに罠があります。
心配するのは、その人のことを愛しているからだと思っていませんか?
もしそうなら、それは錯覚です。
愛するということは、その人を信じるということです。
一方、心配するということは、その人を信じないということです。
論理的に、これが一致するはずありませんよね。
「そうは言っても、まったく関係ない赤の他人がどうなろうと心配しないけど、家族や恋人のことは気になるじゃないの。」
「そうしたら他人のことは愛しているけど、家族のことは愛していないことになるの?」
そう反論したい気持ちはわかります。それは私も考えてきたことですから。
マザーテレサさんは、愛の反対は無関心だと言いました。
赤の他人がどうなろうと知ったこっちゃないという気持ちは、無関心だからですよね。
したがってそれは愛ではありません。
では家族や恋人たちに対する気持ちはどうでしょうか?
少なくとも無関心ではありません。関心は大いにあります。
それでも愛ではないというのは、不安を抱いているからですよ。
何に対する不安でしょうか?
たとえば上記の例では、男の事業が失敗する不安でしょうか。
つまり女は、男が事業に失敗してはいけないと考えている。事業に失敗したら生きていけないとか、幸せになれないなど、価値が損なわれると考えているのです。
でもそれは、本当でしょうか?
事業に失敗することは、1つの通過点ではないでしょうか?その男にとって、重要な経験かもしれないではありませんか?
それなのに、どうしても失敗させてはならないと思う、その必要性はどこから出てくるのでしょう?
そこに答えがあります。
女は、その男を愛してはいません。事業に失敗しない男を愛しているだけです。その男の中の、事業に失敗しない側面を愛しているだけです。
これは言葉のアヤです。愛とは、すべてを受け入れること。したがって一部を受け入れることが、そもそも愛ではありません。
本当に愛するなら、成功する部分も失敗する部分も、すべてをひっくるめて受け入れられるはずです。
その愛する男がやろうとしているのですから、どうして足を引っ張るようなことをする必要があるでしょうか?
「あなたなら大丈夫。きっと上手くいくと思うわ。でも忘れないで。仮に失敗しても、私はあなたを見捨てないから。だって、愛しているんですもの。」
もし本当に愛があるなら、心配などしません。上手く行くことを祈りながら、失敗しても受け入れる覚悟を決めるでしょう。
斎藤一人さんも著書の中で 、お母さんが子供のことを心配するのは信じていないからだと言っています。
すぐに「うちの子はダメなんですよ」と言うのは、子どもを信じていないからだと。
つまりお母さんは、子どもを愛しているつもりで、本当のところは愛していないのです。
本当に愛するには、自分の心から不安を追い出す必要があります。
どうなったって大丈夫。そうやってデーンと構えていられないようでは、人を愛することはできません。
2012年06月20日
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