NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、天ぷら職人の早乙女さんのことを取り上げていたと書きました。
その記事にも書いたのですが、早乙女さんは自ら世界一と自負するほど弱い人間だそうです。
その弱さを認め、受け入れることで、上昇へのスイッチが入ったと言います。
駅前で立って、人を見る訓練をしたそうです。
そんなことをしても、人の目にさらされる怖さに打ち勝てなかった。
自分のことを、どうしようもなく情けなく感じたことでしょう。
そのとき早乙女さんは、開き直ったのです。
「しゃあない。これが自分だ。」
そこからスタートしようと決めたのです。
そうして開き直ってみると、短所だと思っていた気の弱さの中に、実は自分の長所があったと気づきました。
そこまで人のことを気を使う繊細な神経があるから、単純な天ぷらを揚げる作業をとことん掘り下げることができると。
そうやって、食べた瞬間に「まいった!」と思わせるだけの天ぷらを、揚げられるようになったのだそうです。
短所というのは、実は他人の価値観ではないかと思うのです。
その他人の価値観を、自分も受け入れてきたから、短所として定着したのです。
本当は単に特徴であって、良いも悪いもないのだと思います。
もし自分自身の心の声に耳を貸せば、それは長所だと言っているかもしれません。
私は子どもの頃から、「理屈っぽい」と指摘されてきました。
私はすぐに「なんで?どうして?」と尋ねる癖があって、周りの人は答えに窮することがしばしばありました。
それで私と話をすると嫌そうな顔をして、「お前は理屈っぽい。だから嫌われるんだ。」と言うことが多かったのです。
論理的に考えることを、原因を追求する探究心を、私はずっと短所だと思って生きてきました。
だからなるべくそういうところを出さないようにしたのです。
ちょっとでも「理屈っぽい」と言われようものなら、黙って引き下がるしかなかったのです。
でも、今になって思います。
理屈っぽさこそ、私の長所だと。
今までいろいろな人と接してきて、よくわかりました。
私ほど冷静に論理的に考えられる人は、滅多にいないということが。
ほとんどの人は話があっちこっちへ飛び、論点がずれ、狙った結論をまったく導き出せないのです。
純粋な論理ではなく、「相手をとっちめたい」とか、「自分の正当性を主張したい」というような意図で、はじめから結論ありきの議論しかできないのです。
このブログを始めるにあたって、どんなスタイルにするかじっくり考えました。
そのとき私は、私の理屈っぽさを前面に出そうと決めました。
ああすればこうなる。そういう論理的にものごとが動いているのだとわかれば、あとはその論理にしたがうだけではありませんか。
それに論理であれば、いちどわかってしまえば、他の誰かに頼る必要性がありません。
私の目的は、私に頼らせることではないのです。私に頼らなくても、自分で考えながら幸せになれるようにすることなのです。
なぜなら、それが愛だから。そして、もっとも私らしい生き方だと思うからです。
世の中に、理屈っぽさを評価しない人が大勢いることは知っています。
でも、他人がどう思うかなどは、他人に任せておけば良いと思います。
「行蔵は我に存す」
尊敬する勝海舟氏が、批判された時に言った言葉です。
出処進退は自分で決めること。その評価は他人が勝手にすること。自分には何の関係もない。
そう言って、自らの道を突き進んだのでした。
東京都大田区にある洗足池公園には、勝海舟氏の墓があります。
その近くに住んでいた頃の正月、初詣がわりに墓参りに行ったことがありました。
間違いなく、幕末の不安定な日本を救った恩人の1人。
その勝海舟氏の墓の前で、私は祈りました。
「私は大した人間ではないけれど、多少なりとも人々の役に立つことをしたい。どうか、見守ってください。」
あれからもう23年が過ぎました。
まだ何も大したことができていませんが、その志を持ち続けたいと思うのです。
2012年06月19日
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